サーラの冒険2 悪党には負けない! 山本 弘 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)無邪気《むじゃき》に信じていた |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|暗い刃《ダークブレイド》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------  目次  1 岩の街ザーン  2 マローダ  3 捕《と》らわれたサーラ  4 絶壁《ぜっぺき》の逃走  5 廃棄《はいき》地区  6 闇《やみ》の中の戦い  7 ミスリルの望んだ結末  8 男同士の約束  9 歓迎パーティ   あとがき [#改ページ]    1 岩の街ザーン  秋の澄《す》んだ空に浮かんだ雲が、大地に影を落とし、草に覆《おお》われたなだらかな丘陵地帯《きゅうりょうちたい》を、黄緑《きみどり》と深緑《ふかみどり》のまだらに染《そ》め分けていた。目に見えないほどゆっくりと雲が動いてゆくにつれ、二つの色の境界線が大地の起伏《きふく》を愛撫《あいぶ》するように移動してゆく。  丘の間を縫《ぬ》って伸びる街道《かいどう》を、十数台の荷馬車の隊列《たいれつ》が、がたごとと車輪の音を響《ひび》かせながら進んでいた。空の高みから見下ろす者があったとすれば、茶色いリボンの上を這《は》い進んでいる黒いちっぽけなムカデのように見えたかもしれない。秋の陽射《ひざ》しの下《もと》、車輪の舞《ま》い上げる乾燥《かんそう》した土埃《つちばこり》が、隊列の姿をうっすらとかすませている。  収穫《しゅうかく》した作物を街まで売りに行く農民たちの隊列だった。�盗賊《とうぞく》都市�ドレックノールに近いこのあたりでは、治安が悪く、街道でさえ山賊《さんぞく》が出没《しゅつぼつ》することは珍しくない。金目《かねめ》のものは運んでいないからと言って、安心できないのだ。山賊を警戒《けいかい》して、農民に偽装《ぎそう》して貴重品を運ぶ商人がいるため、愚《おろ》かな山賊が間違《まちが》えて普通《ふつう》の農民を襲《おそ》うことがある。貧しい農民たちは護衛《ごえい》を雇《やと》えないので、なるべく大人数で移動することで自衛《じえい》していた。 「おおい、少年、見えてきたぜ」  隊列の最後尾で、馬に乗って警戒の役目をしている中年の男が、前をゆく馬車の荷台に積み上げられた小麦の袋《ふくろ》の山にむかって怒鳴《どな》った。 「……ん」  揺《ゆ》れる小麦袋の山の上で、蜂蜜色《はちみついろ》をした小さな頭が、もぞもぞと動いた。眠たげな目をこすりながら、少年が上半身を起こす。雲が作り出す柔《やわ》らかい日陰《ひかげ》と、馬車の揺れが気持ちいいので、つい居眠りしていたのだ。  さほど遠くない海からの風が、少年のさらさらした髪《かみ》をふわりとかき上げた。まだあどけなさの残る顔。好奇心《こうきしん》でいっぱいの大きな瞳《ひとみ》——上品な服装をしていたら、女の子と言っても通用するかもしれないが、今はすり切れた革《かわ》の上着と薄汚《うすよご》れた半ズボンという、いささか色気に欠ける身なりである。  名前はサーラ。吟遊詩人《ぎんゆうしじん》の歌に出てくる伝説の英雄の名である。顔も覚えていない父がつけたものだ。 「何……?」 「あれさ、ほれ」  馬に乗った男——フラークという名前だった——は、顎《あご》をしゃくって、隊列《たいれつ》の前方を示した。サーラは振《ふ》り返って前方を見た。 「うわ……」  少年の口がぽかんと開き、感嘆《かんたん》の声が洩《も》れた。  丘陵《きゅうりょう》の向こうから姿を現わしたのは、鉄錆《てつさび》の色をした大きな岩山だった。緑の草原を破り、大地の底から巨大な力で押し上げられてきたかのようだ。頂上にわずかに緑がある他は、ほとんど岩肌《いわはだ》がむきだしになっている。奇形《きけい》のキノコか、焼きそこないのパンのような、ひどく醜《みにく》い形をしているが、その巨大さは単純な美醜《びしゅう》の基準を超越《ちょうえつ》して、見る者に不思議《ふしぎ》な感動を覚えさせた。  岩山のあちこちから細い煙が何本も立ち昇っていて、まるで空から垂《た》れた蜘蛛《くも》の糸のようだった。多くの人が暮らしている証拠《しょうこ》である。それが巨大な街であることを、サーラは話で聞いて知っていた。岩山の内部を縦横《じゅうおう》にくり抜いた洞窟網《どうくつもう》によって構成された地下都市ザーン——このザーン国の首都《しゅと》である。 「女の人だ……」  サーラは茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。岩山の南側、少年の見ている方向からだと左の端が、斧《おの》で断《た》ち割ったように垂直《すいちょく》に切れ落ち、そこに人の輪郭《りんかく》が見えた。  錯覚《さっかく》ではない。それは確かに冠《かんむり》をかぶった女性の横顔で、その下には胸のふくらみもあった。大きく腕を広げた格好《かっこう》で、背中と下半身は岩山に溶《と》けこんでいる。まるで岩から生まれ出ようとしているかのようだ。  少年はその驚異的《きょういてき》な光景から目をそらすこともできなかった。 「ナイアフェスの像さ」  まるで自分のものであるかのように、フラークは自慢《じまん》げに言った。 「ザーンの初代の女王様さ。この国を作って、あの岩山を都に定めたお方だ。自分の偉大さを記念するために、ああやって岩壁《がんぺき》を削《けず》って自分の像を彫《ほ》らせたのさ——もっとも、半分しかできないうちに死んじまったもんで、あんな風に腰《こし》から下が岩に埋《う》まったままなんだがな」 「……きれいな人だったの?」 「さあな。もう二百年も前の話だから……ほら、冠《かんむり》がきらきらしてるだろ?」 「ほんとだ」  像の冠の部分が赤や緑の光を反射し、本当に宝石がはまっているように見えた。 「あそこに今の王様が住んでなさるんだ。一度も見たこたぁねえがな。あの頭の後ろのところがお城になっていて、冠のところが展望台《てんぼうだい》になってるんだそうだ。窓に色ガラスがはまってるのさ」 「すごいや……」  サーラの声は感動のためにかすれ、馬車の音になかばかき消されていた。胸が興奮《こうふん》と期待でぎっしり詰《つ》まっていた。  故郷を出てからここまで、五日間の行程だった。地図の上では指数本分の距離でしかないが、生まれてから一度も村を出たことのなかった十一歳の少年にとっては、思いきった覚悟《かくご》の大旅行だった。  彼は家出してきたのだ。  途中《とちゅう》の村でザーンに向かう荷馬車隊に出会い、快《こころよ》く便乗《びんじょう》させてもらえたのは、まったく幸運だった。食糧を調達《ちょうたつ》する金は充分《じゅうぶん》にあったとはいえ、ずっと徒歩《とほ》だったら大変だったろう。曲がりくねった石ころだらけの山道を通る間は、揺《ゆ》れがひどくて気分が悪くなったものだが、整備された街道《かいどう》に出てからは、まったく快適な旅だった。 「なあ、バリー?」 「え? ああ……」  サーラは一瞬《いっしゅん》、自分のことを呼ばれたと気づかなかった。祖父たちが追っ手を差し向けることを予想して、足取りをごまかすため、偽名《ぎめい》で旅してきたのだ。 「街についたらどうするつもりなんだ?」 「前に言ったでしょ? 人に会うんだ。親戚《しんせき》のおじさんさ」 「なるほど。親戚のおじさんねえ……」 「どうしてそんなこと訊《き》くの?」  フラークは馬上で肩をすくめた。 「いや、ひょっとして家出じゃないかと思ってな」  そのさりげない言葉に、サーラは心臓をつかまれた思いだった。しかし、どうにか平静を装《よそお》い、ぎこちない笑《え》みを返すことができた。 「どうしてそう思うの?」 「何となくな。俺《おれ》も坊やぐらいの頃、家出したことがあるからさ」 「おじさんも[#「も」に傍点]?」  うっかり口を滑《すべ》らし、サーラは慌《あわ》てて口をつぐんだ。フラークは微笑《ほほえ》み、気がつかなかったふりをした。 「ああ——もっとも、たった半日で戻《もど》って来ちまった。だから、まともな家出と呼べるかどうかは分からんけどな」 「どうして家出しようと思ったの?」 「さあ、どうしてだったか……ずいぶん昔のことだから、そのへんは忘れちまったな。たぶん親と喧嘩《けんか》でもしたんだろうよ。覚えてるのは、家に帰った時、気まずかったってことだけだな」 「気まずかった?」 「ああ。絶対に家に帰るもんかと思って、村を出て街道《かいどう》を歩きはじめたのはいいけど、考えてみりゃあ、金もない、食い物もない、生きてゆく当てなんて何もない……ま、十歳やそこらの子供じゃ、当たり前だけどな。夕方になって、腹も減《へ》ってきたんで、しかたなくすごすごと村に戻《もど》ったんだ」 「家の人に怒《おこ》られた?」 「ああ。気まずかったってのはそこなのさ。俺《おれ》は家を出る時、習いたての字で、板に『いえでします』とだけ書いて、戸棚《とだな》の上に置いといた。子供なりに考えたのさ。書き置きがすぐに見つかっちまったら、追いかけて来られるだろ? それで、すぐには目に止まらないだろうけど、いずれは見つかるような場所を選んだのさ。  家に帰る途中《とちゅう》、俺は書き置きがまだ見つかってないことを祈ってた。家出したのに半日で戻《もど》って来るなんて、あまりにもかっこが悪すぎる。書き置きが見つかってないなら、ただちょっと遠出しただけで済《す》むからな。  ところが家に帰ると、ちょうど晩飯時で、シチューをすすっていた姉貴《あねき》が俺を見て笑った。『あら、フラーク、家出したんじゃなかったの?』……」  フラークは笑ってかぶりを振《ふ》った。 「あん時の気まずさときたら、忘れられるもんじゃないな。それからは家出なんて一度も考えなかったよ」 「うん、分かるよ、それ」  サーラは自分の体験と重ね合わせて、おかしい気分になった。彼の場合、字が書けなかったので、家出をした朝、同じ村に住んでいる四つ年下のショーンという少年に、「夜になったら、僕が家出したってお祖父《じい》ちゃんに伝えて」とこっそり頼《たの》んだのだった。ショーンは少し無口だが正直な子供で、口が固く、おまけに「家出」という言葉の意味をまだ知らない。この役目にはうってつけだった。  ショーンはちゃんと伝えてくれただろうか? サーラは少し不安になった。もし伝言《でんごん》がうまく伝わらなかったら、大人たちはサーラが森で迷子になったとでも思いこんで、村じゅう総出で捜索《そうきく》をやっているかもしれない。それは嫌《いや》だった。家出というのが身勝手な行動だと分かっているだけに、必要以上に誰かに迷惑《めいわく》をかけたくなかった。 「だからな」とフラーク。「俺《おれ》は家出する子供を尊敬してるんだ。家出がどんなに大変なことかってことは、よく知ってる。大人だって一人で生きてゆくのは並たいていのことじゃない。それができる子供はたいしたもんだ」 「もし……」サーラはおそるおそる訊《たず》ねた。「仮に僕が家出したんだとしたら……村につれ戻《もど》す?」 「いや。帰りたくなったら自分で帰るだろ。違うか?」 「そうだね」  サーラはほっとして、微笑《ほほえ》んだ。 「ねえ、おじさん」 「ん?」 「おじさんは家出して、何になろうと思ったの?」 「何に? さてなあ。何かあったような気もするが……忘れちまったな」 「僕はね、冒険者《ぼうけんしゃ》になるんだ」 「冒険者? 穴に潜《もぐ》ったり、怪物《かいぶつ》を退治したりする仕事かい?」 「そう、それ! 一回だけだけど、もう洞窟探検《どうくつたんけん》をやったこともあるんだよ。キマイラって怪物をやっつけたんだ!」 「ほう? そりゃすごい」フラークは信じていない様子だった。 「本当だってば! もちろん僕一人じゃなくて、大人《おとな》の冒険者の人たちといっしょだったけどね。その人たちが、僕には冒険者の素質があるって言ってくれたんだ。だから僕は冒険者になることに決めたんだ!」 「しかし、危ない仕事だろう?」 「もちろん!」サーラはきっぱりと答えた。「だからこそ面白いんだよ!」 「そうだな」フラークは苦笑した。「子供の頃にはそういう夢を持つのもいいかもしれんな——たとえうまく行かなくても」 「うまく行くさ! それに僕のは夢じゃないよ。現実だもの」 「現実はなかなか思った通りに行かないもんだぞ」 「行かせるさ!」  サーラは自信たっぷりに言った。フラークは小さく肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。  黄緑《きみどり》と深緑《ふかみどり》の境界線が、前方からゆっくり近づいて来たかと思うと、荷馬車隊の上をさっと通り過ぎた。雲間から太陽が顔を出す。陽《ひ》を浴《あ》びて草原が輝き、サーラの行く手を祝福しているようだった。  ザーンの正門は岩山の南側にあるので、街道《かいどう》は岩山の手前で大きく南に迂回《うかい》している。岩山の北側は深い森に覆《おお》われているからだ。また、来訪者《らいほうしゃ》に正面から見たナイアフェス像の素晴《すば》らしさを堪能《たんのう》させるという計算もあった。  東からの街道《かいどう》は、像の真正面で西からの街道と合流し、一本の広い道路になって、正門に向かって北上する。道路の左右には、岩が乱雑に積み重なった円錐形《えんすいけい》の丘が並んでいる。  岩山内部にトンネルを掘ったり、像を刻《きざ》むときに出た、岩の破片を積み上げたものだといぅ。その岩屑《いわくず》の量からだけでも、いかに大工事であったかが分かる。  近づくにつれて、岩山の巨大さがますます強烈に心にのしかかってきた。特に南側の面は垂直《すいちょく》に近いので、見る者に与える威圧感《いあつかん》は大きい。今にもこちらに倒れかかってくるように思えるのだ。  よく見ると、岩壁《がんぺき》の表面には無数の小さな黒い穴があいていた。そのために岩山は巨大な蟻塚《ありづか》のようにも見えた。光を岩山の内部に導く窓や、通気孔《つうきこう》、煙突、排水口《はいすいこう》など、人工的に掘られた穴である。何百年も人の暮《く》らしが続いてきたので、穴から出る煤《すす》や汚水《おすい》が岩壁の表面を汚《よご》し、黒や茶色の細い縦縞《たてじま》を描いていた。  岩壁に刻まれたナイアフェスは大きく腕を広げ、つんとすました顔で、訪《おとず》れる者を歓迎している。未完成とはいえ、下から見上げると、その大きさは圧倒的だった。二百数十年の歳月のために風化《ふうか》して、頬が少し欠け落ちているのが残念だ。  正門に近づいた。門の前には小さな広場があり、市が立っている。色とりどりの天幕《てんまく》が立ち並び、果物《くだもの》や野菜、壷《つぼ》、織物《おりもの》などを売る声が騒々《そうぞう》しい。菓子を焼いているらしい香ばしい匂《にお》いもする。  門は人の背丈《せたけ》の何倍もある厚い樫《かし》の木の扉《とびら》で、何の飾りもなく、ごつごつした岩肌《いわはだ》に埋めこまれている格好《かっこう》だった。像が完成していたら、その台座の部分に当たり、それなりの化粧《けしょう》が施《ほどこ》される予定だったのだろう。ナイアフェスの後継者《こうけいしゃ》たちは、外観を気にかけない実利主義者ばかりで、彼女のやり残した芸術的事業を完成させようという意欲など、まったく持ち合わせていなかったらしい。  今、門は大きく開け放たれていた。街に入ろうとする人々や馬車の列が、門の前で止められ、二人の衛兵《えいへい》の質問を受けている。衛兵はもう一組いて、こちらは街から出ようとする人々を調べていた。それほど厳重《げんじゅう》な審査《しんさ》ではなく、形だけのものらしい。人の出入りが多すぎるからだろう。  サーラは荷馬車から降りた。荷馬車隊の一員のふりをして通過することもできたのだが、後でフラークたちに迷惑《めいわく》がかかるかもしれないので、やめておいた。彼らが街から出る時に、来る時にいた少年がいないことを、衛兵が不審《ふしん》に思うかもしれない。  サーラたちのすぐ後ろに、後からやって来た別の一団が並んだ。明らかに冒険者《ぼうけんしゃ》である。チェーン・メイルに身を固めてモールをかついだごつい戦士やら、エルフの娘やら、獣《けもの》の皮を着た少女やらの六人組だ。どんな冒険をして来たのか興味《きょうみ》があったが、すぐに自分の番が来たので、訊《き》きそこねてしまった。 「子供か。何しに来たんだ?」  衛兵が無愛想《ぶあいそう》に訊《たず》ねた。 「人に会いに来たんです。用事があって。『月の坂道』という店なんですけど」  緊張《きんちょう》しているにもかかわらず、サーラは思ったよりすらすらと答えることができた。衛兵はサーラをじろじろ見回し、ふむ、と鼻を鳴らした。 「まあいいだろう。気をつけろよ。最近このあたりじゃ、子供の人さらいが流行《はや》ってるらしいからな」 「ありがとう」  サーラは会釈《えしゃく》すると、衛兵の横をさっさと通り抜け、トンネルに入った。後から来た六人組は、怪しげな風体《ふうてい》なので、少し詳《くわ》しく調べられているようだった。  トンネルは大きくて、荷馬車が楽にすれ違えるほどの広さがあった。最初は薄暗く感じられたが、少し歩くうちに目が慣《な》れてきた。後方から差しこむ外界の光とは別に、前方に白い光が見えた。大勢の人が集まっているらしく、やけににぎやかそうだ。  五十歩も歩かないうちにトンネルは終わり、広い空間に出た。初めて目にするザーン内部の様相《ようそう》に、サーラは驚《おどろ》いて立ちすくんだ。  そこは釣鐘状《つりがねじょう》の巨大な空洞《くうどう》だった。端から端まで百歩以上あるだろうか。その中にサーラの村の人口の何倍もの人間がいて、忙しそうに歩き回ったり、荷物を運んだり、店を広げて商売をしたりしているのだった。荷馬車さえも、さも当たり前のように行き交《か》っている。その規模《きぼ》と活気は、門の外のちっぽけな市を上回っていた。屋内《おくない》なので天幕《てんまく》はなかったが、代わりに派手なのぼりが林立している。どこからか洩《も》れている蒸気のために、空洞の向こうの端はうっすらとかすんでいた。サーラは以前に見た地底の湖を思い出した。  想像《そうぞう》を越えたにぎやかさだった。話し声、売りこみの声、歌声、荷物を運ぶ労働者のかけ声、足音、馬車の車輪の音、大道芸人がかき鳴らす楽器の音、何かが触《ふ》れ合うがちゃがちゃという音……それらが渾然《こんぜん》となって、広い天井《てんじょう》いっぱいに反響《はんきょう》し、ざーっという滝の音のような騒音《そうおん》となって、巨大な空洞を満たしていた。  その騒々《そうぞう》しさは、静かな村で育った少年を打ちのめした。最初のうち、何か重大な事件でも起きているのではないかと思ったほどだった。だが、しだいに、これがこの街の日常なのだと分かってきた。  天井の高さも床《ゆか》の直径と同じぐらいあり、見上げると目がくらみそうだった。太陽を小さくしたような魔法《まほう》の光源が全部で十二個、結晶体の頂点を形成するようにきちんと配列されて、宙《ちゅう》に浮かんでいる。地下に引きずり降ろされた星座、という印象だった。その他にも外部の光を取り入れる穴が随所《ずいしょ》にあり、地中なのにちっとも暗くない。  周囲《しゅぅい》の壁の内側には、螺旋状《らせんじょう》のゆるやかな傾斜路《けいしゃろ》が掘られていた。それもまた馬車が楽に通れるぐらいの幅があり、ちょうどネジ穴の内部のように、円筒形《えんとうけい》の空間をぐるりと三周している。頂部は人工の太陽よりもまだ上にあった。そこにもまた大勢の人が行き交っていたが、昇り降りするのにわざわざ傾斜路を何周もしなくてもいいように、随所に階段や梯子《はしご》が設置されていた。  その傾斜路に沿って、いくつもの横穴が開いているのに、サーラは気づいた。その中に人が出入りしている。この空洞から放射状にたくさんの通路が伸びており、それらがさらに分岐《ぶんき》して、岩山の内部全体を網《あみ》の目のように覆《、おお》っているのだった——この大きな空洞でさえ、ザーンのほんの一画《いっかく》にすぎないのだ。  もともとはアレクラストでも最大のオパール鉱山《こうざん》だったのだ、と聞いたことがあった。何百年もの間、オパールを求めて鉱夫たちが坑道《こうどう》を掘り進んでいった結果、ついにはこんな風になってしまったのだ。やがて、岩山の内部が涼しくて過ごしやすく、自然の猛威《もうい》や外敵の侵略《しんりゃく》に対しても安全であることが分かって、人が住むようになった。しだいに人口が増え、内部の環境《かんきょう》も少しずつ整備されて、ついには世界でも類《るい》を見ないこのような地下都市が完成したのだ。 「迷っちゃいそうだな……」天井《てんじょう》を見上げ、サーラはぼんやりとつぶやいた。ショックから立ち直るのに、かなりの時間がかかりそうだった。 「おおい、少年」  フラークの声がした。見ると、ひと足先に門を通過していた例の荷馬車隊が、横穴のひとつにしずしずと入ってゆくところだった。最後尾にいるフラークが、馬から降りて手を振《ふ》っている。  サーラは通行人の間をすり抜け、彼に駆《か》け寄った。 「フラークさん……」 「俺《おれ》たちは作物を扱《あつか》う商人のギルドに荷物を届《とど》けなくちゃいけない。お前は?」 「前にも言ったけど、『月の坂道』っていうお店を探《さが》すよ。そこで人が待ってるはずだから……場所、知ってる?」 「さあ、知らんな。この街には店なんてたくさんあるからな」 「そうか……」 「じゃあ、とりあえずここでお別れだ」  フラークは右手を差し出した。サーラはその手をぎゅっと握《にぎ》った。フラークが自分を子供扱いせず、対等の存在として見てくれたことが嬉《うれ》しかった。 「がんばれよな。失敗してもくよくよするな。失敗するのもいいもんさ。気まずくなったり、恥《はじ》をかいたり、侮《くや》しかったり……そういう思いをするたびに、人間はちょっとずつ賢くなってくんだと、俺《おれ》は思うね」  そう言いながら、フラークは子供時代を懐《なつ》かしんでいるようだった。 「ありがとう——でも僕は失敗しないよ」 「その意気だ。じゃあな」  フラークは立ち去ろうとしたが、ふと何か気づいたらしく、立ち止まって振り返った。 「ああ、そうだ。思い出したよ」 「何を?」 「俺も十歳で家出した時、冒険者《ぼうけんしゃ》になろうと思ってたんだ」 「え……?」 「すっかり忘れてたよ。お前さんが思い出させてくれたんだ——じゃあな」  フラークは馬を引きながら、横穴の中に姿を消した。  サーラはしばらくその場にぼんやりと立ち、フラークの言葉の意味を考えていた。彼はこう言いたかったのかもしれない。俺が子供時代にやりそこねたことを代わりにやってくれ、と……。  サーラは自分の手を見た。フラークとの最後の握手《あくしゅ》の感触《かんしょく》がまだ残っていた。固くて大きな手だった——何十年も畑仕事をやり続けた男の手だ。  僕もいつかあんな手になるんだろうか、とサーラは思った。 [#改ページ]    2 マローダ  案《あん》の定《じょう》、サーラは迷ってしまった。  彼が探していたのは、冒険者《ぼうけんしゃ》の集まる「月の坂道」という酒場だった。半月前、村を去る時に、冒険者たちのリーダー格である青年デインは、店の位置を示す簡単な地図を渡してくれたのだ。  だが、ザーンの複雑《ふくざつ》に入り組んだ通路網《つうろもう》を一枚の紙に描き表わすのは、しょせん不可能なことだった。サーラは紙を横にしたり、ひっくり返したりもしたが、どうしても進むべき方向を見つけることができなかった——いや、なまじ地図を頼《たよ》りに歩き回ったために、かえって混乱《こんらん》してしまったとも言える。  どのあたりかもよく分からない通路の中央で立ち止まり、サーラは途方《とほう》に暮《く》れていた。この街の裏通りに迷いこんでしまったらしい。通路の片側には数十歩おきにランタンが吊《つ》るされているが、それでもちょっと薄暗い。壁《かべ》にも床《ゆか》にもじかに岩肌《いわはだ》が露出《ろしゅつ》しているが、通路の断面《だんめん》はきれいな四角形なので、洞窟《どうくつ》のような感じはしなかった。  反対側の壁には不規則な間隔《かんかく》で扉《とびら》が並び、中からはにぎやかな音楽が洩《も》れてくる。雰囲気《ふんいき》からすると酒場か、もっといかがわしい店かもしれない。色ガラスのはまったランタンや、派手な色彩の看板《かんばん》が、それぞれに意匠《いしょう》を凝《こ》らして客を誘《さそ》っている——だが、まともな教育を受けたことのないサーラには、看板の字が読めないのだった。  サーラはあせっていた。随所《ずいしょ》にある明かり取りの窓から差しこむ外界の光は、すでに夕闇《ゆうやみ》の色が濃《こ》い。もう何時間も街の中をさまよっていることになる。 「あのう、すみません」  サーラはある店に入ろうとしていた職人風の男を呼び止めた。 「『月の坂道』っていうお店を知りませんか? 冒険者が集まる……」 「さあ、知らねえな」  仕事を終えて一刻も早く一杯やりたかったらしい男は、邪魔臭《じゃまくさ》そうにそう答えると、音楽のあふれかえる店の中へ、逃げこむように姿を消した。サーラは肩を落とし、ため息をついた。この街の人間は、みんないつも急いでいるようだ。 「……困ったなあ」  サーラは途方《とほう》に暮《く》れてつぶやいた。もう十何人もの通行人に訊《たず》ねているのだが、みんな口調《くちょう》こそ違うが、「知らない」と言う。確かに、こんなに店が多くては、すべての店の名前を覚えていることなど誰《だれ》にもできないだろう。  いや、一人だけ「月の坂道」を知っているという男がいた——酒樽《さかだる》を転《ころ》がして、どこかに運んでいる途中《とちゅう》の大男である。何があった切か知らないが不機嫌《ふきげん》な様子で、「このもうひとつ上の通路を、ちょっと西へ行ったところを行けばすぐ分かる」と大雑把《おおざっぱ》な教え方しかしてくれなかった。  だが、「もうひとつ上の通路」というのがどれなのか、「西」というのがどっちなのか、サーラにはさっぱり分からなかった。当てずっぽうで見当をつけて行ってみたものの、いっそうややこしい場所に入りこんだだけだった。  訊ねるべき人間を間違えていたのだ、と気づいたのは、だいぶ経《た》ってからだった。冒険者《ぼうけんしゃ》の集まる店なら、冒険者に訊《き》けば知っているはずだ。こんな大きな街なら、冒険者だって大勢いるだろう……。  しかし、そう考えて探《さが》しはじめると、冒険者らしい人物というのは、なかなか見つからないものだった。正門のところで出会ったあの冒険者たちについて行けば艮かったのだろうが、今さら気づいても遅《おそ》い。  どうしても今日じゅうに「月の坂道」が見つからないようなら、まず宿屋を探そう、とサーラは思った。お金はあるんだから、一泊《いっぱく》ぐらいはどうにかなる。また明日、探せばいいさ。とにかく、「月の坂道」という店がこの街のどこかにあることだけは確かなんだから……。  そんなことを考えていた時—— 「道に迷ったの?」  サーラはびっくりして振《ふ》り向いた。いつの間に近づいたのか、背の高い女がすぐ後ろに立っていた。  猫のような眼をした女だった。ちょっと頬《ほお》のこけたきつい顔をしているが、なかなか美人で、唇《くちびる》の赤きが鮮《あざや》やかだった。ライオンのたてがみのような豊かな黒髪《くろかみ》を銀色のヘアバンドでまとめており、首からは銀色の鎖《くさり》を垂《た》らしている。丈の短いスカートは、黒い光沢《こうたく》のある見たこともないソフト・レザーでできており、ふくよかな腰の線を包みこむにはきゅうくつすぎて、今にも内側からはち切れそうだった。ベルトには護身用《ごしんよう》としては大きすぎるダガーを吊《つ》るしている。  冒険者《ぼうけんしゃ》だろうか? サーラの胸に希望が広がった。 「はい、そうなんです。『月の坂道』っていうお店を探《さが》してるんです。知りませんか?」  女は小首を傾《かし》げ、値踏《ねぶ》みするような視線で少年を見下ろした。 「あんた、この街の子じゃないね?」  女の声は低くて魅惑《みわく》的だった。サーラがもう何歳か大人《おとな》に近かったら、その声にぞくっとなったかもしれない。あいにく、そうした感情を持つには彼はまだ幼すぎた。 「はい。知ってる人に会いにこの街に来たんですけど、道が分からないし、看板《かんばん》の字も読めなくて、困ってたんです」 「ふうん、字が読めないのか……」女は何かを納得《なっとく》したかのように、ふんふんとうなずいた。「そりゃ大変だ……」 「知ってますか、『月の坂道』ってお店? 冒険者が集まる酒場みたいなところらしいんですけど……」 「ああ、もちろん知ってるよ」 「ほんとに!?」サーラは飛び上がった。「どこですか? どこ?」 「案内してあげるよ。分かりにくい場所だからね」  女はにっこりと笑い、サーラの肩に手を置いた。 「何も心配するこたあないよ」  女は少年の肩を軽く押すようにして、通路を歩きはじめた。その笑顔《えがお》と声には、単なる親切にしては不自然《ふしぜん》な慣《な》れ慣れしさがあった——しかし、ようやく手がかりを見つけて有頂点《うちょうてん》になっているサーラには、それに気づくゆとりはなかった。  女がサーラを案内したのは、曲がりくねった通路の奥だった。壁《かべ》のランタンの数が少なくなり、ひどく暗い。通路の掘り方も雑で、天井《てんじょう》は低いし、床《ゆか》もでこぼこしている。サーラは何度かつまずきかけた。  さっきまでいた通りに比べて、通行人もやけに少ないようだ。たまにすれ違うのは、いかにも柄《がら》の悪そうな男や、派手《はで》な化粧《けしょう》をした女たちだ。曲り角には酒臭《さけくさ》い浮浪者《ふろうしゃ》が寝転《ねころ》がっている。  一軒《いっけん》の酒場の前で、女は立ち止まった。 「ほんとにここ?」  サーラは首をひねった。デインの書いてくれた地図と、店の位置関係が違いすぎると思えたのだ。 「そうさ。ほら、『つき・の・さかみち』って書いてあるだろ?」  女は扉《とびら》の前に立っている安っぽい看板《かんばん》の文字をなぞって見せたが、もちろんサーラには読めはしない。  女はとまどっているサーラの背中を優しく押して、入口をくぐらせた。  店の中は暗かった。うっすらと煙が漂《ただよ》っており、赤い色ガラスのはまったランプが放つ弱々しい光が、空気を夕焼けのように赤く染《そ》めていた。酒の匂《にお》いや、魚を焼く匂いの他に、サーラの知らない匂いが何種類もあった。音楽はなく、あちこちのテーブルで交わされているひそひそ話や、せき払い、カードをシャッフルする音、人がごそごそと身じろぎする気配《けはい》などが、潮騒《しおさい》のように空気を満たしている。  目が慣《な》れてくると、煙を通して店の中の様子が分かってきた。古い通路を改造した部屋らしく、さほど広くはないが、奥行きはあるようだ。片側にはカウンターがあって、目つきの悪い髭面《ひげづら》の主人が、退屈《たいくつ》そうに片肘《かたひじ》をついている。テーブルは全部で四つ。そのうち三つに、柄《がら》の悪そうな男女が座っているが、密談《みつだん》やカードゲームに熱心で、こちらに関心を示した様子はない。  サーラは期待をこめて見回したが、見覚えのある顔はなかった。 「あんたの探《さが》してる人、いる?」  女がささやいた。サーラは無言でかぶりを振《ふ》る。 「その人たち、何て名前なの?」 「デイン、ミスリル、レグ、フェニックス……」 「ミスリル?」女は眉《まゆ》をびくっと動かした。「ダークエルフのミスリル?」 「ダークエルフじゃないよ。色は黒いけどエルフだよ……知ってるの?」 「まあね」女は小さく肩をすくめた。「この街じゃ有名だから……ちょっと待ってな。訊《き》いてみるから」  女はカウンターに近寄り、主人の顔にキスしそうな距離まで顔を近づけて、小声で何か素早くささやいた。二人は親しいらしい。主人は表情を変えず、横目でちらっとサーラを見ると、小さくうなずいて、短く何か答えた。  すぐに女は戻《もど》ってきた。 「ミスリルたち、じきに来るらしいよ」 「え、ほんと!?」 「ああ。ここの常連《じょうれん》なんだと。毎日、今ごろの時間になると、決まって現われるそうだ。待ってればいいさ」 「そうする」 「あたしもつき合うよ。ちょうど一杯やりたいと思ってたとこだったから」  女は指で主人にサインを送り、飲み物を注文した。主人は無言でうなずいた。二人は店のいちばん奥のテーブルに座った。 「あたしはマローダ。あんたは?」 「サーラ。サーラ・パル」 「へえ、サーラか。いい名前だね」  名前を誉《ほ》められて、サーラは複雑《ふくざつ》な気分だった。女みたいな名前なので、自分ではあまり気に入っていないからだ。 「ねえ……」  マローダは腕組《うでぐ》みしたままテーブルに身を乗り出し、サーラに顔を近づけた。額《ひたい》と額が軽くぶつかった。口紅《くちべに》の匂《にお》いまで感じられる。 「訊《き》いてもいいかな? ミスリルたちにいったい何の用? 仕事の依頼《いらい》?」  サーラはちょっとどぎまぎした。「ううん……仕事じゃないよ」 「じゃあ何?」 「仲間にくわえてもらいに——僕、冒険者《ぼうけんしゃ》になるんだ」  マローダは口を小さな0の字にして、驚《おどろ》きを表現した。「……そりゃあすごい」 「嘘《うそ》じゃないよ」 「疑ってやしないよ。ちょっと若すぎるんじゃないかって思っただけさ……ふうん、そうか。冒険者になるのか——」  その時、主人がカウンターから出てきて、サーラの顔ほどもある大きな木製のジョッキを二つ、テーブルの上に乱暴《らんぼう》に置いた。泡《あわ》が縁《ふち》からこぼれていた。  サーラは困惑《こんわく》して、ジョッキに手を出さなかった。秋の収穫祭《しゅうかくさい》の時などに、小さな杯《さかずき》に入ったワインを飲んだことはあるが、ビールを飲んだ経験はない。 「遠慮《えんりょ》しなくていいよ」マローダは自分のジョッキを持ち上げながら言った。「あたしがおごるからさ」 「そうじゃなくて、僕、ビールはまだ……」 「何言ってんだよ。冒険者《ぼうけんしゃ》がビールぐらい飲めなくてどうすんの」  そんな風に挑発《ちょうはつ》されては、飲まないわけにはいかない。サーラは重たいジョッキを両手でつかんで口に運ぶと、マローダがジョッキを傾けるのに合わせて、ぐいと傾けた。強い匂《にお》いのする液体《えきたい》を、一気に四分の一ほども胃に流しこむ——数秒後、サーラは激《はげ》しくむせ、テーブルの上に泡《あわ》を飛び散らしていた。 「あらあら、無理《むり》させちまったかな」  マローダは口の回りの泡をぬぐいながら、少年の慌《あわ》てぶりを愛しげに見下ろし、優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》んだ。 「何で大人《おとな》は、こんなものおいしそうに飲むの……?」サーラは苦しさに涙を流しながら言った。「苦いだけじゃない……」 「大人になるとおいしくなるのさ」とマローダ。  サーラは顔をしかめた。「ほんとに?」 「ああ。誰《だれ》だって最初はまずく感じる。でも、何度も飲むほどに味が分かってくる。ビールがおいしく感じられるようになったら、立派な大人さ」 「じゃあ、大人になるためには、がまんして飲まなきゃいけないのか……」 「そういうことだね」  サーラはしかたなく、ジョッキにまだたっぷり残っているビールに、ちびりちびりと口をつけた。これをおいしく感じられる日が来るとは、とても信じられなかった。  マローダはすでに一杯目のビールを飲み干《ほ》し、二杯目を注文していた。 「ねえ、サーラ」 「ん?」 「ミスリルに会ったことあるのかい?」 「うん。三週間ほど前だけどね。ミスリルやデインたちを見て、冒険者《ぼうけんしゃ》になりたいと思ったんだ」 「いったい何でまた?」 「それはね——」  問われるままに、サーラはいきさつを話した。三週間前、デインたち四人の冒険者《ぼうけんしゃ》が自分の村にやって来たこと。彼らのキマイラ退治の冒険に、好奇心《こうきしん》から同行したこと。キマイラに捕《とら》えられて呪《のろ》いをかけられそうになったところを、四人が力を合わせて助けてくれたこと。最後には自分が大活躍して、河に流れてなくしそうになったキマイラの首を取り戻《もど》し、祖父に報酬《ほうしゅう》を出させたこと……。  多少の脚色《きゃくしょく》をくわえ、すべての事情を語り終えた頃には、サーラの顔は真っ赤になっていた。ジョッキの中のビールは、もう残り少ない。 「なるほど。それで冒険者にあこがれて家出したわけか……でも、ご両親は心配してるんじゃないかい?」 「両親……?」  サーラはとろんとした目で問い返した。眠りに落ちる直前のように、頭がぼうっとしている。マローダの質問の意味を理解するのに数秒かかった。 「父さんも母さんもいないんら[#「ら」に傍点]……」舌がもつれやすくなっていた。「お祖父《じい》ちゃんは僕のこと、かわいく思ってないし……」 「ザーンまで一人で旅してきたわけ? 路銀《ろぎん》はどうしたんだい?」 「ミスリルたちがくれたんら[#「ら」に傍点]よ。分け前ら[#「ら」に傍点]って……」 「分け前?」 「うん……僕がいなかったら、キマイラの首、なくしちゃって、報酬がもらえらいところら[#「ら」に傍点]ったんらもの。それれ[#「れ」に傍点]、四四〇〇のうち、四〇〇を僕に……」 「なるほど。いかにもミスリルらしいね」 「そう言えば、ミスリルたち、遅《おそ》いね……?」 「じきに来るだろ」 「ねえ……」  今度はサーラの方から身を乗り出し、顔を近づけた。 「ミスリルのこと、よく知ってるの?」 「うーん、まあね」マローダは視線を宙《ちゅう》にそらせ、あいまいに答えた。「知り合いだったこともあったかな……」 「恋人?」 「……ませたこと訊《き》くねえ」 「ごめんなさい……」 「謝《あやま》ることないって」マローダは苦笑し、しみじみと言った。「確かにね。昔はいっしょに冒険したこともあるよ。恋人みたいな関係だったこともある。ずっと昔だけど……いい奴《やつ》だよ、あいつはね」 「今は恋人じゃないの?」 「違う」 「ろ[#「ろ」に傍点]うして?」 「別れたのさ。喧嘩《けんか》したの」 「ら[#「ら」に傍点]から、ろ[#「ろ」に傍点]うして?」  マローダは少年の額《ひたい》を軽くつつき、微笑《ほほえ》んだ。「子供に分かることじゃないよ」 「僕もう、子供じゃないもん。ビール、飲んじゃったもん」 「味が分かるようになった?」 「うーん……」サーラはもうろうとした頭で考えた。「よく分かんない……」 「ほら見ろ」 「うーん……」  サーラはべったりとテーブルに突っ伏《ぷ》し、うなった。頭の中に霧《きり》がかかっているようで、まともに考えることができない。眠くてたまらない。 「みんな、遅《おそ》いね……」 「眠たけりゃ、寝ててもいいよ。来たら起こしてやるから」 「やら[#「ら」に傍点]。来るまれ[#「れ」に傍点]起きてる……」 「好きにするがいいさ」  マローダは肩をすくめ、三杯目のビールを飲み干《は》した。こちらは顔色ひとつ変えていない。 「ねえ……」 「ん?」 「何か話して……」 「話? 何を?」 「何れ[#「れ」に傍点]もいい。ひまつぶしになるようら[#「ら」に傍点]もの……」 「うーん、そうだねえ……」  マローダはちょっと考えてから、サーラの耳に口を寄せ、話しはじめた。それまでの乱暴《らんぼう》な喋《しゃべ》り方とはうって変わった、子守り歌のような静かな口調《くちょう》だった。  あるいはそれは、彼女のひとり言だったのかもしれない。 「昔むかし、あるところに、それはそれは心の優しい娘がおりました。彼女は誰《だれ》も傷つけたくはありませんでした。誰からも何ひとつ奪《うば》いたくありませんでした。彼女は人とは少し変わったところがあったので、いつもみんなから嫌《きら》われ、ひとりぼっちでした。でも、彼女は平気でした。いつか自分のことを理解し、愛してくれる人が現われると、無邪気《むじゃき》に信じていたからです……。  でも、それは子供の頃の話です。大人になるにつれて、彼女には分かってきました。人は誰かを傷つけなくては愛せないし、何かを奪《うば》わなくては生きてゆけない、ということに。彼女は少しずつ人を傷つけることを覚え、奪うことを覚えました。やがてそれが楽しいことだと分かってきました。  そしてある日、彼女はとうとうめぐり合いました。子供の頃から夢見ていた、彼女を愛してくれる王子様に——でも、もう遅《おそ》すぎました。彼女はその人を愛することができなかったのです。彼女にできたのは、その人を傷つけることだけでした……」  サーラの記憶に残っているのは、そこまでだった。  目が覚めたとき、最初に感じたのは、軽い頭痛だった。 「いた……」  頭に手をやりたかったが、どういうわけか手が動かなかった。感触《かんしょく》からすると、ベッドの上に横たえられているらしい。  サーラはぼんやりとした頭で、状況《じょうきょう》を理解しようとした。岩をくり抜いて造られた部屋《へや》らしい。明かり取りの窓から差しこむ朝の光が、壁《かべ》に白い四角形を映し出していた。光のカーテンの中で、埃《ほこり》の微粒子《びりゅうし》がきらきらと踊っている……。  朝!? サーラは驚《おどろ》いて飛び起きようとした。  できなかった。少年の体はつんのめって、ベッドの端まで移動した。そこで何秒か持ちこたえたものの、なすすべもなくベッドからずり落ちた。床《ゆか》に敷かれた安っぽい敷物《しきもの》に激突《げきとつ》し、埃がふわりと舞《ま》い上がる。  胸を強打し、息が詰《つ》まった。苦痛で涙がにじみ、うめき声が洩《も》れる。薄っぺらな敷物はほとんど衝撃《しょうげき》をやわらげる役目を果たしてくれなかった。手で体をかばうこともできなかったのだ。  サーラは愕然《がくせん》となった——自分が縛《しば》られていることに気がついたのだ。 [#改ページ]    3 捕《と》らわれたサーラ  束縛《そくばく》はそれほど大げさなものではなかった。短い二本の縄《なわ》で、手首と足首を縛《しば》ってあるだけだ——だが、たったそれだけで、少年の身体の自由を奪《うば》うには充分《じゅうぶん》だった。 「誰《だれ》か! 誰かいないの!? ほどいてよ!」  混乱《こんらん》してそう叫んでから、しまったと思った。誰に捕《つかま》えられたのかは分からないが、相手が悪意《あくい》を持っているなら、声を出しても不利になることはあっても、有利になることは何ひとつない。目を覚《さ》ましたことに気がつかれなければ、逃げられる機会があったかもしれないのに……。  もう遅《おそ》い。廊下《ろうか》をどすどすと足音が近づいてきた。サーラはパニックに陥《おちい》りそうになるのを必死にこらえて待った。  扉《とびら》を壊《こわ》さんばかりの勢いで飛びこんできたのは、顔じゅう黒い髭《ひげ》だらけの、野獣《やじゅう》のような大男だった。使いこんだ傷だらけのレザー・アーマーを着ている。床《ゆか》に転《ころ》がって縮みあがっているサーラを見下ろし、今にも怒りが爆発《ばくはつ》しそうな不機嫌《ふきげん》な様子だ。恐怖《きょうふ》におびえる少年の目には、伝説の巨人のような大きさに映った。  丸太のようなごつい腕が、少年の襟首《えりくび》を乱暴《らんぼう》につかみ、仔猫のように宙《ちゅう》に持ち上げた。苦しいのと恐ろしいので、サーラは生きた心地がしなかった。 「マローダ! おい、マローダ!」  男は雷《かみなり》のような声で吠《ほ》えた。  その背後からふらりと現われたマローダを見て、サーラは絶望《ぜつぼう》的な気分になった。彼女は眠そうな様子で、頭をぽりぽりかいている。 「どうしたのよ?」 「何で猿《さる》ぐつわを噛《か》ませとかねえんだ!? 声を立ててるじゃねえか!」  マローダは笑った。「あんたの声の方がでかいよ」 「しかし——」 「いいかい、マイズ。ここはドレックノールじゃないんだ。厚い岩の壁《かべ》があるから、どんなに悲鳴《ひめい》をあげたって隣《となり》にゃ聞こえやしない」  マローダの口調《くちょう》は投げやりだったが、不思議《ふしぎ》な威圧感《いあつかん》のようなものがあって、大男の抗議《こうぎ》の声をあっさりと制していた。 「だけど万一——」 「この子を眠らせるために、ビールをしこたま飲ませたんだ。猿《さる》ぐつわをさせといて、吐いたりしたらどうする? 窒息《ちっそく》しちまうじゃない」 「ちっそく?」 「息が詰《つ》まることだよ」  マイズと呼ばれた大男は、もごもごと口ごもった。あまり頭が良くないらしい。マローダの声に含まれた嘲《あざけ》りの口調にさえ気づいていないようだ。 「——まあいいか」  マイズは不満そうな表情で引き下がった。サーラを床《ゆか》に下ろし、乱暴《らんぼう》に突き飛ばす。よろけて倒れそうになるのを、マローダが受け止めた。 「何日もここに置いとくわけじゃないだろうな?」 「ああ。昼過ぎには中継所《ちゅうけいじょ》につれてくよ。今、チャーナクが馬車を手配してる」 「ここにいる間、そいつの面倒《めんどう》はお前が見てるんだぞ。いいな?」 「ああ、いいとも」  マローダは軽く請《う》け合った。マイズは彼女より優位にあるかのように振《ふ》る舞《ま》っていたし、自分でもそう思いこんでいるようだ——しかし、実のところ、マローダにうまく操《あやつ》られているにすぎないことは、サーラにも容易に察しがついた。  乱暴で愚《おろ》かな大男は、うわべだけの威厳《いげん》をふりまきながら、部屋《へや》を出て行った。 「さて……と」  マローダは縛《しば》られたままのサーラをベッドに座らせると、自分は手近にあった木の椅子《いす》を引き寄せて、後ろ向きに腰《こし》かけた。背もたれに肘《ひじ》を乗せて、苦境に陥《おちい》った少年を楽しそうに眺《なが》める。 「気分はどう? 酔《よ》いは抜けた?」  サーラは無言だった。上目使《うわめづか》いに女をにらみつけ、精《せい》いっぱいの抗議を表現する——だが、マローダは軽く首をかしげ、何も知らない少女のように屈託《くったく》のない微笑で、憎しみの視線をあしらった。 「ん? 何か言いたそうね?」 「……僕を騙《だま》したんだ」サーラはぼそっと言った。  マローダはうなずいた。「そうだよ」 「……悪い人だったんだね?」 「ええ」 「ひどいよ! 親切なふりをして、みんな嘘《うそ》だったんだ! 嘘つき!」 「あのねえ、坊や」マローダは苦笑した。「この世の中には大勢の悪人がいるんだよ。そいつらがわざわざ『私は悪人です』って顔してると思う? とんでもない! そんな顔してたら、たちまち捕《つか》まっちまうじゃない。悪人ってのはたいてい、悪人じゃないふりをしてるものなのさ。分かる?」  その論理《ろんり》の前には、サーラは絶句《ぜっく》するしかなかった。言い返す言葉の見つからない少年を、マローダは楽しそうに見下ろしている。 「分かったようだね。騙《だま》される方が悪いのさ」 「……僕をどうするの?」 「売り飛ばすのさ」 「どこに?」 「さあねえ。あたしもよく知らない」 「知らない?」 「ああ。取り引き相手ってのが、どこかの大きな組織の大物らしいんだが、自分から正体を明かしはしなかったし、あたしらもあえて詮索《せんさく》はしなかった。下手《へた》にそんなことを嗅《か》ぎ回ったら、後で口封《くちふう》じのために消されかねないからね。だから、さらった子供をどこにつれて行くのかも、どうするつもりかも知らない。あたしらはただ、子供を捕《つか》まえて、そいつらに引き渡して、報酬《ほうしゅう》を貰《もら》う——ただそれだけさ」 「……どこの誰かも分からない奴に、僕を売り飛ばすの?」  マローダは大きくうなずいた。「これがあたしらの商売だからね——あんたはいい顔してるし、元気そうだから、たぶんいい値で売れるよ。今、あたしの仲間が代理人に連絡《れんらく》を取りに行ってるとこさ」 「悪いとは思わないの?」 「思わない」 「……どうして?」 「どうして?」思わぬ質問をされ、マローダは困惑《こんわく》している様子だった。「そんなこと訊《き》かれてもねえ。これがあたしの生き方だもの」 「他《ほか》の人は、そんな生き方はしてないよ」 「あたしは『他の人』じゃないからね」  サーラは肩を落とし、眼を伏《ふ》せた。これ以上議論しても無駄《むだ》だ。そもそも、マローダはまったく罪《つみ》の意識を抱いていないのだ。いくら言葉で非難《ひなん》しても、心を変えさせることはできそうにない。  ほんの一時、少年の純真《じゅんしん》な心には、裏切られた悲しさと悔《くや》しさが荒れ狂い、絶望《ぜつぼう》の闇《やみ》に覆《おお》われそうになった。このまま心を閉ざし、きびしい現実との闘いを放棄《ほうき》してしまいたかった。これからどんな悲惨《ひさん》な運命が待ち受けていようと、厚い情熱というものをなくしてしまえば、それほどつらくはないに違いない……。  だが、サーラは崖《がけ》の寸前で踏《ふ》みとどまった。どんなに絶望的でも、現実との闘いを途中《とちゅう》で放り出したくはなかった。夢の最初の一歩さえも実現しないうちに、他人に自分の人生を踏《ふ》みにじられるのはがまんならなかった。  絶望に負けなかったのは、サーラが普通《ふつう》の少年よりほん少し強い心を持っていたからだった。それはもしかしたら、キマイラ退治の冒険《ぼうけん》を体験し、死線をくぐり抜けたことによる強さかもしれない——あるいは、夢を持っている者の強さなのかも。 「ま、そんなに悲観《ひかん》したもんでもないさ。どこかで奴隷《どれい》にされるにしても、あんたみたいなかわいい子は乱暴《らんぼう》に扱《あつか》われたりはしない。いい暮らしをさせてもらえるさ」  マローダは気楽な口調《くちょう》で慰《なぐさ》めた。少年が急にうつむいて黙《だま》りこんだのを、悲しさと悔しさのせいだと思いこんだようだ。サーラにとっては、好都合《こうつごう》な誤解《ごかい》である。実のところ、うつむいたのは決意をこめた表情を読まれないようにするため、黙りこんだのは考えをぬぐらせるためだった。  ようし、分かった、とサーラは思った。確かにマローダの言う通り、騙《だま》された僕が馬鹿《ばか》だったんだ。なら、これからは賢くなってやろう。二度と騙されたりはしない。あきらめたふりをして、相手を油断《ゆだん》させて、逃げ出す機会を見つけるんだ。このまま売り飛ばされてたまるもんか……。  やがて、ひとつの案が浮かんだ。自分でもお粗末《そまつ》な作戦だとは思うが、何も試《ため》してみないよりはいいだろう。  マローダは考えこんでいる少年をその場に残し、部屋を立ち去ろうとしていた。サーラはなるべくせっぱ詰《つ》まった声で、彼女を呼び止めた。 「……ねえ、待って」  戸口のところでマローダは振《ふ》り返った。「何だい?」 「お……おしっこ」  マローダは吹き出したが、サーラは表情を読まれまいと必死だった。手洗いがどこにあるのかは分からなかったが、この部屋から出してもらえれば、逃げ出す機会があるかもしれないと思ったのだ。うまくすれば、縄《なわ》もほどいてもらえるかも……。  だが、そんなに甘くはなかった。マローダは少年の縄をほどこうとはせず、部屋の隅《すみ》においてある壷《つぼ》のところまで引きずって行くと、いきなりズボンを下ろしはじめたのだ。  サーラは慌《あわ》てた。「ちょ、ちょっと待って。自分でやるからいいよ」 「何言ってんだい。夕べだってあたしが手伝ってさせてあげたんじゃないか」 「夕べ?」 「ああ、そうさ。あんた、べろんべろんに酔《よ》ってて、狙《ねら》いがちっとも定まってなかったからね……覚えてない?」  サーラはショックを受けた。「覚えてない……」 「ははあん、そのぶんじゃ、テーブルの上に座りこんであたしに説教《せっきょう》したことや、変な歌を唄《うた》ったことも覚えてないね?」 「…………」  マローダはくすくす笑った。「あんた、酒癖《さけぐせ》が悪いんだよ。気をつけな」  結局、サーラは恥辱《ちじょく》に耐《た》えながら、マローダの手を借りて、用を足《た》し終えた。みっともなさと失望で、いっぺんに気力が失《う》せてしまった。  ちょうどその時、廊下《ろうか》の向こうで扉《とびら》が勢いよく開く音がして、若い男のせっぱ詰《つ》まった声がした。 「マローダさん! マローダさん!」 「ここだよ!」とマローダ。  飛びこんできたのは、さっきの大男ではなかった。軽いソフト・レザーを着たレンジャー風の若者で、ひどく慌《あわ》てており、息を切らしている。服は草の汁《しる》で汚《よご》れ、髪《かみ》には木の葉がついており、どうやら森を急いで駆《か》け抜けて来たらしい。 「マローダさ……うわ、何やってんですか!?」  レンジャー風の男は目を丸くした。ちょうどマローダがサーラのズボンを引き上げてやっているところだった。 「ばか、誤解《ごかい》すんじゃないよ——どうしたんだい? 中継所《ちゅうけいじょ》の見張りをやってたんじゃないのか?」  そう言われて、男は重大な用件を思い出した。 「それが……岬《みさき》の中継所が潰《つぶ》されました」 「何だって!? いつ?」 「今朝早くです。六人組の冒険者《ぼうけんしゃ》が押し入って来ました。やばいと思って、俺《おれ》は降伏《こうふく》したんで、逃がしてもらえたんです。しばらく屋敷《やしき》の外で様子をうかがってたんですが、リーバーさんや残りの連中《れんちゅう》も捕《つか》まったみたいで……」  その時、さっきのマイズという大男も、のっそりと部屋に入ってきた。眼をこすっているところを見ると、隣《となり》の部屋で居眠りしていたらしい。 「あの屋敷がやられたってのか? おい、ガスリー! てめえ、いったい何のために見張りしてたんだ?」 「無茶言うなよ」ガズリーと呼ばれたレンジャー風の男は、マイズの剣幕《けんまく》に押されて、気弱そうに首をすくめた。「向こうはけっこう腕の立つ連中だったんだ。相棒《あいぼう》のグレッグがやられたよ。逃げようとしたところを、女の射《う》った矢がもろに首を貫《つらぬ》いて、階段を転《ころ》げ落ちて行ったんだ……」 「何であの屋敷《やしき》が分かったんだ?」とマローダ。 「リーバーさんです。その冒険者たちに追われて、ボロボロになって屋敷に逃げこんで来たんですが、後を尾《つ》けられてたらしくて……」 「あのドジ!」マローダは吐き捨てるように言った。「よりによって中継所に逃げこむこたあないだろう!」 「はあ……」ガスリーはまた首をすくめた。 「待てよ、あの中継所には確か、まだ運び出してない子供が四人いたはずだよね? あの子たちも解放されたのかい?」 「たぶん」 「くそお……」  三人は黙《だま》りこんだ。マローダは唇《くちびる》を噛《か》み、考えこんでいるようだった。サーラには事情はよく分からなかったが、何か重大なトラブルが起きたことは確かだ。もしかしたら、これで状況《じょうきょう》が好転《こうてん》するかもしれない……。  やがてマローダは口を開いた。 「リーバーは口を割ると思うかい?」 「あの人だって、ヴェラーズさんの恐ろしさはよく知ってるでしょう」 「ヴェラーズじゃない、あたしらのことだよ! それに、問題はあの子供たちだ。あの子たちはこの場所のこと、知ってるんだからね」 「でも、つれこむ時もつれ出す時も眠らせてたから、正確な場所は……」 「下町をしらみ潰《つぶ》しに探《さが》されたら、すぐ分かっちまうさ。それに、あたしらの顔も覚えられてるからね。今度ばかりは、袖《そで》の下で切り抜けられるとは思えない。とにかく、衛視《えいし》の手が回る前に、ここを引き払わないと……」 「じゃあ……」  マイズはサーラの方に顎《あご》をしゃくった。 「そのガキはどうするんだ? 始末《しまつ》するのか?」  三人の悪人の視線を受け、サーラはベッドの上で体を縮ませた。 「まだ……まだ分からない」  マローダはためらいがちに言った。奇妙《きみょう》な困惑《こんわく》の表情が浮かんでいる。サーラは不思議《 ふしぎ》に思った。子供を平気で売り払ってしまうような悪人でも、子供殺しは躊躇《ちゅうちょ》するものなのだろうか? 「だって、そんな子供をつれて逃げるわけにいきませんよ」ガスリーが懇願《こんがん》するように言う。「ここに放って行くのもまずいし……」 「分かってる——ヴェラーズに連絡《れんらく》を取る」 「ヴェラーズさんとこに直接つれて行くんですか? そりゃもっとまずいですよ! 俺《おれ》たちとの関係を知られることを、あれだけ警戒《けいかい》してる人なんですよ。そのためにわざわざ街の外に中継所まで作って……」 「そんなこたあ分かってる!」マローダは苛立《いらだ》ちを爆発《ばくはつ》させた。「とにかく、あの人の指示を仰ぐんだ! あたしの一存《いちぞん》じゃ判断《はんだん》できない……」  ガスリーは口をすぼませて不満を表明した。「あの人の指示は分かりきってると思いますけどねえ……」 「訊《き》いてみなくちゃ分かんないだろ! それに、逃げるにしても資金がいるんだ。あの人がこの子を買い取ってくれるなら、その金で逃げられる。もし、だめなら……」  マローダは言葉を途切《とぎ》らせた。 「……その時はあたしが始末《しまつ》する」 「はあ……」 「お行き、ガスリー。大急ぎでヴェラーズに連絡《れんらく》取るんだ」 「俺《おれ》じゃ無理《むり》ですよ。顔つなぎしてもらってないし、交渉《こうしょう》に自信もない。マローダさん、行ってください」  マローダは、ちっと舌を鳴らした。素早く頭を回転させる。 「分かった。ヴェラーズにはあたしが話をつける。あんたはチャーナクを探《さが》してきな。たぶん市場で油売ってるはずだから。マイズ、この子を見張ってな」 「まさか、俺《おれ》だけ置いて逃げる気じゃねえだろうな?」  マイズは不安そうに言った。巨体に似合わず気が小さいところがあるようだった。マローダはせせら笑った。 「そこまで落ちぶれちゃいないよ。逃げる時はいっしょだ——ああ、それから」  部屋《へや》から出て行きかけたマローダは、振り返り、きれいな人差し指をぴしりとマイズに突きつけた。 「あたしらが帰って来るまで、その子に手をかけるんじゃないよ! 分かってるね!?」 「分かったよ」マイズは不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。  マローダとガスリーは足早に部屋を出て行った。サーラはまだ縛《しば》られたまま、大男といっしょに部屋に取り残された。 「さて……と」  マイズが巨体をかがめてきた。野獣《やじゅう》のような眼でぎょろりとにらまれ、サーラは心臓が縮み上がる思いがした。キマイラの尾に巻きつかれた時の恐怖《きょうふ》がよみがえった。今、少年の生殺与奪《せいさつよだつ》の権は、この愚《おろ》かな乱暴者《らんぼうもの》の手に委《ゆだ》ねられているのだ。もし、こいつがマローダの言いつけに逆《さか》らおうという気を起こしたら……。 「ふん!」  大男はサーラの腕をつかんでベッドから引きずり下ろすと、床《ゆか》の敷物《しきもの》の上にぺたんと座らせた。後ろ手に縛《しば》った縄《なわ》をいったんほどいてから、ベッドの脚《あし》に縛り直す。逃げ出せないように用心を重ねているつもりなのだろう。  それからマイズはシーツの端を破り、それをぎゅっと絞《しば》って棒状《ぼうじょう》にすると、少年の口に乱暴《らんぼう》に押しこんだ。安物の布《ぬの》は舌にざらざらするうえ、長いこと洗っていないらしく、なかば腐《くさ》ったようなひどい匂《にお》いがした。それを咽喉《のど》の入口あたりまで押しこまれて、サーラはむかつき、涙を流した。  それでようやくマイズは安心したらしく、「おとなしくしてろよ!」と言わずもがなのことを言い残して、部屋を出て行った。扉《とびら》が閉じられ、掛《か》け金《がね》の下りるかちゃりという音が、死刑宣告《しけいせんこく》のように響《ひび》いた。  サーラは再び一人になった。声を立てられず、身動きもできず、助けが来る望みもまったくなかった。  絶体絶命《ぜったいぜつめい》だ。 [#改ページ]    4 絶壁《ぜっぺき》の逃走  サーラは必死に考えをめぐらせた。八方ふさがりの状況《じょうきょう》の中で、何とか希望を見出そうと懸命《けんめい》だった。考えがちょっとでも停滞《ていたい》すれば、絶望の重みに押しひしがれてしまいそうだった。  殺されるとかぎったわけじゃないんだ、とサーラは自分をごまかそうとした。可能性はあまりなさそうだが、もしマローダが言っていた「取り引き相手」とやらに話がつけば、殺されることなく、金と交換《こうかん》に引き渡されるかもしれない——だが、その先に待つのが死よりも悲惨《ひさん》な運命であろうことは、子供心にもおぼろげに察しがついた。  サーラはかぶりを振《ふ》って、偽《いつわ》りの希望を振《ふ》り払った。殺されるのも、売られるのも、たいして変わりはない。となると、どうしても、マローダが帰って来る前に逃げ出さなくてはならないわけだ。  難問《なんもん》はたくさん待ち構えている。それらをいっぺんに考えようとすると、勇気がくじけそうになる。ひとつずつ解決してゆくしかない。  叫び声をあげるのは問題外だ。マローダが言ったように、この街では隣《となり》まで声は届《とど》かないだろう。それに、シーツの切れ端はきつく口の中に押しこまれているので、舌の力で押し出すのは無理《むり》だった。  何とかしてロープをほどけないだろうか? サーラは恐怖に屈《くっ》しそうになる弱い心を叱咤《しった》しながら、どうにか動かせる範囲《はんい》内で指を動かし、ベッドの脚《あし》に結ばれた縄《なわ》の状態を調べた。マイズは力まかせに乱暴《らんぼう》に縛《しば》っていったようだ。ほどいたり、引きちぎったりするのは、とてもできそうにない。だが、何とかしてベッドの脚から結び目を引き抜くことができれば、あるいは……。  サーラはベッドの脚を軸《じく》にして、座ったまま体を半回転させ、背中を丸めてベッドの下にもぐりこんだ。大人《おとな》では無理《むり》だったかもしれない。子供の小さな体と柔軟《じゅうなん》さがあればこそできた芸当だ。  正座して前かがみになった胎児《たいじ》のような姿勢《しせい》から、足腰《あしこし》に力をこめて、背中でベッドを押し上げた。安物のベッドであったが、それでも少年自身の体重より重かっただろう。背中に固い板が当たって、ひどく痛かったが、死にもの狂いの力を発揮するにつれて、じりじりと持ち上がりはじめた。  ベッドの片側の脚《あし》が少し浮いた状態で、サーラは膝《ひざ》を立て、肩でベッドの重量を支えた。自分の体をくさびにしたのだ。それから少しずつ縄《なわ》の結び目を押し下げていった。  肩にのしかかるベッドの重圧に耐えながら、しばらく苦闘《くとう》が続いた。結び目が下にずれてゆくにつれて、何度も姿勢《しせい》を変えなくてはならなかった。これまでの人生で、これほどの体力と忍耐を要求されたことはない。途中《とちゅう》、何度も苦痛に屈《くっ》しそうになったが、小さな体からありったけの気力を振《ふ》り絞《しぼ》って、試練《しれん》に耐《た》え抜いた。  奮戦《ふんせん》すること数分、ついに結び目がベッドの脚から抜けた。ほっとして力をゆるめ、少しずつベッドを降ろしてゆく。脚が床に触《ふ》れる時、ごとんという大きな音がして、冷や汗をかいた。だが、マイズがやって来る気配《けはい》はない。  ベッドの下から芋虫《いもむし》のように這《は》い出す。がっかりしたことに、ベッドの脚から抜け出しても、結び目はまだがっちりとしていて、手首の自由を奪《うば》っていた。だが、這い回れるようになっただけましだ。  縄を切るためのナイフのようなものがあればいいのだが——期待をこめて見回したが、この殺風景《さっぷうけい》な部屋《へや》には、たいしたものはなさそうだった。家具と呼べるのは、ベッドの他には、さっきの壷《つぼ》ぐらいのものだ。  あきらめかけたその時、サーラの視線が戸口でぴたりと止まった。このザーンでは、すべての部屋は岩をくり抜いて造られている。当然のことながら、部屋と部屋を隔《へだ》てる岩の壁《かべ》は厚く、ドアは壁に張りついているのではなく、壁の四角いくぼみに埋《う》めこまれるような格好《かっこう》で付いている。すなわち、壁がくぼんで戸口になっている部分では、岩が直角に削《けず》り取られ、ドアを囲む枠《わく》を構成しているのだった。  サーラはそこまで這《は》ってゆくと、戸口の角に背を向けて座り、直角に突き出た岩に、縄を何度かこすりつけた。案《あん》の定《じょう》、縄の表面がこすれてささくれ立つ感覚があった。ナイフほど鋭《するど》くはないが、充分《じゅうぶん》に時間をかければ、切ることはできそうだ。  再び苦闘《くとう》がはじまった。今度のは精神的な戦いだった。岩をこする強さは、強すぎても弱すぎてもいけない。思いきり力を入れてごしごしこすれば、早く切断《せつだん》できるかもしれないが、大きな音を立ててマイズに気づかれる危険がある。かと言って、のんびりしていては、マローダが帰って来てしまう……。  慎重《しんちょう》にやれと戒《いまし》める心と、速くしろと急《せ》かす心——二つの心のはざまで、サーラは気が狂いそうだった。  永遠とも思える長い長い苦闘も、やがて終わりを告げた。実際には三十分もかからなかっただろう。岩の角でこすられた縄は、少しずつ磨滅《まめつ》し、ついに切れたのだ。サーラは手首にからみついた縄の断片《だんべん》をむしり取ると、口に詰《つ》められた布《ぬの》きれを引きずり出し、ほっと安堵の息をついた。  きつく縛られていた手首には、赤い痣《あざ》が残っていた。手首をさすって血行を取り戻《もど》し、しびれた指を回復するには、さらに数分かかった。  両手が自由になってしまうと、足首を縛《しば》った縄をほどくのは、あっけないほど簡単な作業だった。数時間ぶりに全身の自由を取り戻《もど》し、サーラは立ち上がって伸びをした。  だが、まだ完全に自由の身になったわけではない。ようやく半分といったところだ。これからさらに、掛《か》け金《がね》のかかったドアを開け、見張り役のマイズを突破《とっぱ》するという、重大な試練《しれん》が残っている……。  いや、待てよ。明かり取りの窓から出られるんじゃないか? サーラは天井《てんじょう》近くにある窓を見上げて考えこんだ。高いところにあるし、小さいけれども、僕なら通り抜けられるかもしれない。調べてみても損はない。  サーラは背伸びして窓枠《まどわく》に手をかけると、懸垂《けんすい》の要領《ようりょう》で体を引きずり上げた。この街のすべての窓と同じく、窓の幅と同じぐらいの奥行きがあり、窓というより「穴」といった感じである。おそらく、かなりの長さがあるノミを使って、岩をくり抜いたのだろう。雨風を防ぐための鎧戸《よろいど》が付いているが、今は明かりを取り入れるために開いていた。かなり狭《せま》いが、体をくねらせれば、くぐり抜けるのは難《むずか》しくない。 「うわ……」  窓から顔を出したサーラは絶句《ぜっく》した。  窓のすぐ下に地面はなかった。ここは断崖絶壁《だんがいせっぺき》の中腹なのだ。はるか眼下には、緑の森が絨毯《じゅうたん》のように広がっているが、どれぐらいの高さがあるのか見当もつかない。地平線まで一望に見渡すことができたが、景色を楽しんでいる心の余裕《よゆう》はなかった。  実のところ、崖《がけ》はまったくの絶壁というわけではなく、いくらか傾斜《けいしゃ》があった。だが、それを見下ろすサーラの感覚では、ほとんど垂直《すいちょく》と同じだった。壁面《へきめん》には蔦《つた》植物が生い茂っており、この窓のすぐ近くにも一本の蔦が垂《た》れていたが、これを伝い降りるのはごめんこうむりたかった。  首をひねって見上げても、上には青い空しかなかった。崖《がけ》の下から吹き上げてくる風が、さらさらした金髪《きんぱつ》をかき上げる。ほんの一瞬《いっしゅん》、いたずら好きな風の精霊《せいれい》の嘲笑《あざわら》う声を聞いたように思った。  注意して観察すると、他《ほか》にもこうした窓がたくさんあるのが見えた。だが、どれも離れすぎている。他に道がなければ、蔦《つた》につかまって降りてゆくしかないだろうが、その前に別の脱出法《だっしゅつほう》を試してみるべきだと思った。  サーチは後戻《あともど》りして、床《ゆか》に降り立った。さっき、扉《とびら》が聞いた時にちらっと見たところでは、この部屋の前は廊下《ろうか》になっているようだ。察するところ、マイズがいるのは壁《かべ》を隔《へだ》てた隣の部屋なのだろう。うまくすれば、マイズがよそ見をしている隙《すき》に、廊下を通り抜けられるかもしれない。  まず、ドアの掛《か》け金《がね》をはずさなくてはならない。ドアに近寄り、音を立てないようにそっと押したり引いたりして、その感触《かんしょく》で掛け金の状態を調べた。幸い、サーラはこうしたことに経験があった。自分の家で、厨房《ちゅうぼう》の勝手口から出入りする時に、曲げた針金《はりがね》をドアの隙間《すきま》に突っこんで、外から掛け金をはずしたり掛けたりしていたのだ。  いいぞ、とサーラは思った。どうやら勝手口の掛け金と同じ造りだ。先端が鈎状《かぎじょう》になった金具《かなぐ》を、もう一方のリング状の金具にひっかけるだけの、単純な構造である。おまけにドアの造りは安っぽく、充分《じゅうぶん》な隙間があった。針金さえあれば何とかなる……。  しかし、この部屋には針金はない。サーラは小さく舌打ちして、何か使えるものはないかと、服のポケットを探《さぐ》った。  その時ようやく、大金を入れていた革《かわ》の袋《ふくろ》が盗《と》られているのに気づいた。悪人たちの卑劣《ひれつ》なやりくちに、あらためて怒りを覚えたが、どうすることもできない。今はここから逃げ出すことがすべてに優先するのだ。  ズボンのポケットから一枚の紙切れが出てきた。デインが書いてくれた地図である。今は関係ないと思ってポケットに戻《もど》そうとしたが、ふと、頭の隅《すみ》にひっかかるものがあり、手を止めた。くしゃくしゃの紙切れをじっと見下ろし、思案《しあん》しているうちに、ひとつの考えが浮かんだ。  サーラはその紙切れを縦に四つに折《お》り畳《たた》んだ。折目の端の部分を、小指の先ほどむしり取り、半月形の切れこみを作る。  その紙切れをドアの隙間《すきま》に差しこみ、切れこみの部分を掛《か》け金《がね》にひっかける。一度目はしくじったが、二度目でうまくいった。手ごたえを確認し、慎重《しんちょう》にそろそろと持ち上げてゆく……。  かちゃり。小さな音を立てて掛け金がはずれた。サーラは大きくため息をつき、紙切れをゆっくりと引き抜いた。  扉《とびら》を細めに開け、廊下《ろうか》の様子をうかがう。人の気配《けはい》はないし、物音もしない。マイズは隣《となり》の部屋《へや》で居眠りでもしているのかもしれない。廊下の端には、出入口らしい扉が見えた。  期待と緊張《きんちょう》で心臓が激《はげ》しく高鳴る。  慎重に、慎重に——サーラは体を横にし、扉の隙間に体を滑《すべ》りこませるようにして、廊下に忍び出ようとした。  その時、がちゃがちゃという音がして、出入口の扉が開いた。間一髪《かんいっぱつ》、サーラは慌《あわ》てて部屋《へや》に引っこんだので、入ってきた人物と顔を合わせずに済《す》んだ。 「おい、マイズ、まだいるかあ?」  ガスリーの声だった。 「また安酒かっくらって寝てんじゃないの?」  もう一人は聞き覚えのない若い男の声だった。ちゃらちゃらした口調《くちょう》で、妙に耳にびんびん響《ひび》く声だ。 「寝てなんかいねえぜ!」  これはマイズの声。しかし、明らかに酒が入っている。 「お前らこそ遅《おそ》かったじゃねえか! どこでさぼってやがった?」 「チャーナクを探《さが》すのに手間取《てまど》ってたんだよ。この野郎、非常時だっていうのに、朝っぱらから果物《くだもの》売りの娘にちょっかいかけてやがって……」 「非常時だなんて、俺《おれ》が知るわきゃないだろ」  びんびん響く若い男の声。彼がおそらくチャーナクなのだろう。 「あの小僧は?」 「おとなしくしてるぜ」 「マローダさんは?」 「まだ帰ってねえ」 「今のうちにここを引き払う用意をしといた方がいいかもなあ……」  これはだめだ——三人の会話を聴《き》きながら、サーラは唇《くちびる》を噛《か》んだ。マイズ一人なら、何とか目を盗《ぬす》んで逃げることができたかもしれない。だが、三人の前を突破《とっぱ》するのは、試してみるまでもなく不可能に決まっている。  こうなると窓から逃げるしかない。  サーラは忍び足で扉《とびら》から離れ、窓に歩み寄った。再び窓枠《まどわく》に体を持ち上げて、窓にごそごそともぐりこむ。  窓から上半身を乗り出し、なるべく下を見ないようにしながら、絶壁《せっぺき》に垂《た》れ下がっている蔦《つた》をつかむ。引っ張ってみたが、かなり丈夫《じょうぶ》そうだ。子供の体重を支えるぐらいはできるだろう。  だが、窓から下半身を引き抜いて蔦にぶら下がるには、かなりの度胸が必要だった。背筋を冷たい手でなでられているような、むずむずする感触《かんしょく》がする。理性ではどうすることもできない、本能的な恐怖心《きょうふしん》だった。今さら室内に戻《もど》るわけにもいかず、上半身だけを窓の外に乗り出し、窓枠に腰掛《こしか》けた不自然な姿勢《しせい》で、しばらく風の音だけを聞きながら、勇気が臨界点《りんかいてん》に達するのをじっと待っていた。  と、ガスリーのすっとんきょうな声が聞こえた。 「ありゃあ、扉が開いてるじゃねえか。ちゃんと掛《か》け金《がね》ぐらいかけとけよ」  サーラはぎょっとして、体をねじ曲げ、自分の脚《あし》と窓枠の間から室内を覗《のぞ》いた。扉が開いている! 建てつけの悪い扉は、掛け金がはずれたうえ、外からの風が吹きこんできたので、自然に開きはじめたのだ。 「俺《おれ》はちゃんとかけたぜ!」とマイズが抗議《こうぎ》する。 「だって、げんに開いて……」  そう言いながら部屋《へや》に入ってきたガスリーは、空っぽのベッドと、床《ゆか》に落ちた縄《なわ》を見て、驚《おどろ》いて立ち止まった。さっと振《ふ》り向いたその視線が、窓から出ようとしているサーラを発見した。 「こいつ!」  ガスリーが飛びかかってきた。サーラは慌《あわ》てて下半身を窓から引き抜く。だが、その動作は一瞬《いっしゅん》遅《おく》れ、ガスリーに右の靴《くつ》をつかまれてしまった。  サーラは窓から離れ、両腕で蔦《つた》にぶら下がった。しかし、窓から突き出たガスリーの手が、靴の踵《かかと》をつかんで離さない。ちょうどYの字を九〇度倒したような格好《かっこう》で、絶壁《ぜっぺき》に宙吊《ちゅうづ》りになり、じたばたしているのだった。  左足を岩山出っ張りにかけ、何度も右足を蹴《け》り上げるが、ガスリーは離そうとしない。しかし、ガスリーの方でも姿勢《しせい》が悪くて、サーラを室内に引きずりこむことができないでいた。数秒間、ぶざまな引っ張り合いが続いた。  サーラは思いきって、右足を靴《くつ》から引き抜いた。ガスリーは靴を握《にぎ》りしめたまま、勢いあまって後ろにひっくり返り、悪態《あくたい》をつく。 「ちくしょう! 来てくれ! チャーナク! マイズ!」  ガスリーの怒りの声を聞きながら、サーラは無我夢中《むがむちゅう》で蔦《つた》を伝い降りはじめた。故郷の村で木登りで遊んだことはよくあるが、こんな切迫《せっぱく》した状況《じょうきょう》など一度もなかった。ほんの一時、高さに対する恐怖《きょうふ》さえ忘れていた。  降りながら、ちらっと下を見た。かなり下の方に狭《せま》い岩棚《いわだな》が見える。あそこまで降りることができれば……。  蔦が不自然な揺《ゆ》れ方をした。見上げると、ガスリーが窓から身を乗り出し、蔦をつかもうとしている。ずいぶん引き離したつもりだったのに、まだせいぜい一階分しか降りていないのを知り、サーラは愕然《がくぜん》となった。  幸い、窓は小さいので、ガスリーは通り抜けるのに苦労している様子だった。今のうちに降りれば、もっと距離が稼《かせ》げる。サーラはいっそう急いだ。すでに落下の危険など頭になかった。  さらに一階分ほど降りた時、蔦《つた》が大きく揺れた。追いかけていては間に合わないと悟《さと》ったガスリーが、蔦を揺《ゆ》すって、サーラを振《ふ》り落とす作戦に出たのだ。サーラは必死に蔦にしがみついた。落ちはしなかったが、身動きもできなくなった。  揺れは一分ほど続き、不意におさまった。頭上を見上げたサーラは恐怖《きょうふ》に襲《おそ》われた。業を煮《に》やしたガスリーが、今度はダガーを取り出し、蔦を切り落とそうとしている! サーラはパニックに陥《おちい》り、前にも増して大急ぎで降りはじめた。  あせりがミスを生んだ。あっと思った瞬間《しゅんかん》、汗で湿《しめ》った手から、蔦がすっぽ抜けた。  落ちる!  ほとんど垂直《すいちょく》に近い斜面を、サーラはずるずると滑《すべ》り落ちて行った。シャツがまくれ上がり、露出《ろしゅつ》した腹が岩肌《いわはだ》にこすれる。熱い痛みを感じ、悲鳴《ひめい》をあげた。  二階分ほど滑り落ちたところで、岩棚《いわだな》にぶつかり、落下が止まった。足から落ちたので重傷は負わなかったが、腹と膝《ひざ》がひどくすり剥《む》けていた。慌《あわ》てて腹をシャツで押さえつけ、痛みに耐《た》える。シャツの表面に、じわっと血がにじみ出してきた。どうしようもなく涙が出てくる。 「あ……うう……」  泣きそうになるのをこらえながら、崖《がけ》の上を振り仰《あお》ぐ。蔦を切ることをあきらめたガスリーが、いよいよ蔦《つた》を伝い降りて来ようとしていた。サーラが岩棚《いわだな》にひっかかっている以上、もう蔦を切っても意味がないからだ。  ガスリーが蔦につかまりながら、室内のチャーナクと早口でののしり合っているのが聞こえた。どうやら「魔法《まほう》で足止めしろ」とか言っているようだ。それに対しチャーナクは、よく分からないが、距離がどうとか、しきりに言い訳《わけ》している。ガスリーは「この役立たずめ!」と毒《どく》づき、蔦をするすると滑《すべ》り降りはじめた。  サーラは目をこらした。ガスリーが這《は》い出してきた窓から、黒い人影が頭を突き出し、こちらを見下ろしている。あれがチャーナクだろうか? しかし、涙で視界がにじんでいて、顔までは見えなかった。  サーラは周囲《しゅうい》の状況《じょうきょう》を見回した。岩棚はほぼ水平に続いている。幅はたいして広くないが、壁《かべ》にへばりついて移動すれば、どうにかなりそうだ。痛みに耐《た》え、勇気を奮《ふる》い起こして、よろよろと立ち上がると、サーラは一歩ずつ慎重《しんちょう》に足場を踏《ふ》みしめながら、岩棚の上を歩きはじめた。靴《くつ》を失ったので、右足は裸足《はだし》だ。  ざざざっ! 少し進んだところで、背後で大きな音がした。振《ふ》り返ると、さっきまで自分がいた位置で、ガスリーがうずくまってうめいていた。彼はサーラとほとんど同じところで手を滑《すべ》らせ、同じように滑り落ちて来て、岩棚にぶつかったのだ。 「ち……ちくしょう」  ガスリーはうめいた。彼にしてみればちょっとした不運だが、サーラにとっては大きな不運と言える。せっかく開いた差が、また縮まってしまったのだから。  今や二人の間隔《かんかく》は十数歩しかない。  しかし、走るわけにはいかなかった。というのも、ちょうどサーラの立っているあたりから、急に岩棚が狭《せま》くなっていたからだ。今や片足を乗せられるほどの幅しかない。斜面にもたれかかるようにして、ヤモリのように這《は》い進むしかないのだ。  後戻《あともど》りはできなかった。ガスリーが落下の衝撃《しょうげき》から立ち直り、よろよろした足取りで近づいてくる。急いでいないのは、少年に逃げ場がないのを知っているからだ。  幸いなことに、この難所《なんしょ》はサーラよりもガスリーにとって不利だった。岩棚の幅が狭いため、大人《おとな》の方が足を乗せにくく、バランスを取るのが難《むずか》しいのだ。しかも風雨にさらされてもろくなった岩肌《いわはだ》は、大人の体重に耐えきれず、数歩ごとに小さな破片がボロボロと足許《あしもと》から崩《くず》れる。  びゅう、という音を立てて、きまぐれな風が吹き抜けた。一瞬《いっしゅん》、二人は必死で岩肌にしがみついた。そよ風と呼ぶにはちょっと強い程度の風で、地上にいたなら気にも止めなかっただろう。しかし、今は少しの風でさえ命取りになりかねないのだ。  風が止み、二人は前進を再開した。一歩進むだけで何十秒もかかる、のろのろとした追跡劇《ついせきげき》だ。だが、追う方も追われる方も懸命《けんめい》だ。  救いを求めてあたりを見回したサーラは、自分たち以外にも人がいるのに気づいた。この岩棚《いわだな》よりさらに数階下、ほとんど手がかりなどありそうにない壁面《へきめん》に、黒い小さな人影がへばりついている。 「ねえ! おおい!」  サーラは叫んだ。人影はびっくりして顔を上げた。少年のようだ。サーラと同じ年頃らしく、黒いぼさぼさの髪《かみ》をしており、体にぴったり合った黒い服を着ている。こんな危険なところで何をしているのか、などと疑問に思う余裕《よゆう》はなかった。 「助けて! た・す・け・て!」  きょとんとしている少年に向けて、サーラは声をかぎりに叫んだ。 「聞こえてる!? こいつら、悪い奴《やつ》なんだ! 助けを呼んで来て! 『月の坂道』っていう店にいるミスリルに——」 「チャーナク、黙《だま》らせろ!」  ガスリーが上に向かって怒鳴《どな》った。ほとんど同時に、ねとつくような奇妙《きみょう》な風が、体の周囲《しゅうい》にまとわりつく気配《けはい》がした。いっさいの沈黙《ちんもく》があたりを支配した。サーラは口をばくばくさせたが、声がまったく出てこなかった。  前にミスリルに同じ魔法《まほう》をかけられたので、すぐに分かった。風の精霊《せいれい》を使って音を消し去る魔法なのだ。  それでもサーラは必死に口をばくばくさせ、右腕を振《ふ》り回して、何とか苦境《くきょう》を表現しようとした。少年はとまどっているようだったが、どうやら理解したらしい。岩の角にひっかけたロープを、慣《な》れた動作でするする伝い降り、湾曲《わんきょく》した斜面の向こうに姿を消した。  伝言《でんごん》がちゃんと伝わったことを祈るしかない。  止まっている間に、ガスリーに距離を詰《つ》められてしまった。もうほんの二、三歩の距離である。ガスリーは腕を伸ばし、しきりにサーラの肩をつかもうとする。サーラは常に一歩違いでそれをかわした。だが、いつまでも逃げきれるものではない。  運のいいことに、数歩先で岩棚《いわだな》が再び広くなっていた。広い階段状になって斜め上に続いている。サーラはなかば自暴自棄《じぼうじき》の勇気をふるって、足を早め、難所《なんしょ》の最後の数歩を乗りきった。  サーラは慎重《しんちょう》さをかなぐり捨て、天然《てんねん》の階段を小走りに駆《か》け上がった。ちょっとでもつまずいたら、まっさかさまに転落《てんらく》してしまう。だが、殺人者が背後から追いすがってくるという恐怖《きょうふ》が、他のあらゆる恐怖を圧倒していた。少しでも距離を稼《かせ》がないと……。  だが、三十段も登らないうちに、階段は終わってしまった。  サーラは茫然《ぼうぜん》となって立ちすくんだ。そこは小さな部屋ほどの大きさがある広い岩棚《いわだな》だった。岩壁から突き出している固い岩の層なのだろう——そして、そこから先に、もう道はないのだ。 [#改ページ]    5 廃棄《はいき》地区  岩棚《いわだな》はナイフで切り落としたかのように、すっぱり途切《とぎ》れていた。その向こうにはなだらかに湾曲《わんきょく》する急斜面《きゅうしゃめん》が広がっており、岩が島のように点々と突き出ているだけだ。蔦《つた》が斜面全体を血管のように這《は》い回っているものの、意地の悪いことに、手の届《とど》きそうなところには一本もない。  サーラは岩棚の縁《ふち》に立ち、絶望《ぜつぼう》を感じた。いちばん近くにある岩は、酒場のテーブルぐらいの大きさがあった。距離は大股《おおまた》で四歩といったところか。これが地上にあるのなら、ジャンプして跳《と》び移るのに何のためらいもないだろう。しかし、ここでは一歩|間違《まちが》えれば死んでしまう。ほんの数歩の距離が、世界の果ての深淵《しんえん》のように見えた……。  考えている時間はなかった。ガスリーが階段を昇ってくる。サーラは唾《つば》を飲みこみ、三歩だけ後ずさりした。勢いをつけ、思いきって岩棚の端を蹴《け》る。  跳んだ。  あっけなく岩の上に着地した。予想していたような強い衝撃《しょうげき》も、高揚感《こうようかん》もなかった。ただ、成功したのが奇跡《きせき》のように思えた。  振《ふ》り返ると、ガスリーは岩棚の端で立ち止まり、しぶい顔で躊躇《ちゅうちょ》していた。ジャンプするのはたやすいが、サーラの立っている岩は狭《せま》いので、跳び移ると激突《げきとつ》し、二人とも転落《てんらく》する危険があるのだ。 「おい、坊や」彼は無理《むり》して笑みを作り、猫|撫《な》で声で呼びかけた。「こんな危ない遊びはよしにしようぜ。殺したりしないから、戻《もど》って来いよ——さあ」  その妙に優《やさ》しい声が、かえって不気味だった。サーラは猫に追い詰《つ》められた鼠《ねずみ》のような心境で、周囲《しゅうい》をおどおど見回し、新たな逃げ場を探《さが》した。  すぐに分かったのだが、今立っている岩のすぐ下には、四角い穴があいていた。窓と違って垂直《すいちょく》に掘られており、煤《すす》で黒く汚《よご》れているところを見ると、煙突《えんとつ》らしい。サーラは迷うことなく、岩の縁からぶら下がると、その穴に足から飛びこんだ。その瞬間《しゅんかん》、恐怖《きょうふ》のあまり、思わず目を閉じた。  真っ暗な縦穴《たてあな》の中を、サーラは落下した。今度は肘《ひじ》と脇腹《わきばら》が激《はげ》しくこすれた。  いきなり穴の底にぶち当たり、ひどく尻餅《しりもち》をついた。ひと呼吸する間もなく、煙突《えんとつ》の内側にこびり付いていた膨大《ぼうだい》な量の煤《すす》が、頭上から豪雨《ごうう》のように降り注《そそ》いでくる。サーラは激しくむせかえりながら、室内に這《は》い出した。  外の明るさに目が慣《な》れていたので、暗い室内の様子を把握《はあく》するのに、何秒か浪費《ろうひ》した。閉じた鎧窓《よろいまど》の隙間《すきま》から差しこむ細い太陽の光が、唯一《ゆいいつ》の光源である。  そこは広い厨房《ちゅうぼう》だった。食堂だったのかもしれない。明らかに長いこと使われていないらしく、床《ゆか》や調理台《ちょうりだい》の上に厚く埃《ほこり》が積もっている。サーラが這い出して来たのは、パンを焼くのに使う大きなかまどだった。落下の勢いで室内に噴《ふ》き出した煤《すす》が、ゆっくりと黒煙のように拡散《かくさん》し、白い埃の層の上に黒い班点《はんてん》を落としつつあった。  背後でごそごそという音がした。ガスリーが後を追って、煙突を降りて来ようとしているのだ。  サーラは近くにあった小さな椅子《いす》をひっつかみ、かまどの口に逆《さか》さまに押しこんだ。これで少しは時間が稼《かせ》げるといいのだが——そう祈りながら、きびすを返して、出口に向かって突進した。  扉《とびら》のノブに手をかけたサーラは狼狽《ろうばい》した。鍵《かぎ》がかかっている! 不運続きで泣きたくなるのをこらえながら、小さな体で突進し、何度も何度も扉に体当たりした。古い扉がもろくなっていることに期待するしかなかった。  背後でものすごい音がして、かまどからまたも黒い煤が噴き出した。ガスリーが煙突《えんとつ》の中を落下してきたのだ。椅子が壊《こわ》れる音と同時に、「あうっ!」という悲痛《ひつう》な声が聞こえた。椅子の足で腹か尻《しり》を打ったのだろう。  何度目かの体当たりで、粗末な鍵《かぎ》が吹っ飛び、サーラは通路に転《ころ》がり出た。光が届《とど》かず、ほとんど真っ暗闇《くらやみ》だ。壁《かべ》に片手を当て、その感触《かんしょく》だけを頼《たよ》りに、鼠《ねずみ》のように走る。  悪夢《あくむ》の中の体験のようだった。何度も曲り角に突き当たり、そのたびに額《ひたい》や肩を強くぶつけた。床に積まれていた何かのガラクタにつまずいて、派手《はで》にひっくり返ったこともあった。痛みで頭がぼうっとなる。闇の中なので分からないが、すでに全身傷だらけのはずだ。何度も向きを変えたので、どっちに進んでいるかも分からない。  行けども行けども、一人の人間にも出会わず、一片の明かりも見えなかった。少年は暗黒の世界でひとりぼっちだった。ただ、背後から聞こえる足音と息づかいが、ガスリーの追跡《ついせき》が続行していることを教えていた。  サーラは現実感覚を失いつつあった——ここはいったい何なんだ? 僕ら以外の人はどこにいるんだ?  また何かにつまずいた。階段だ! 胸と向こう脛《ずね》を激《はげ》しくぶつけ、サーラはうめいた。全身いたるところに受けた傷の痛みは、もう十一歳の少年が耐《た》えられる限界に達していた。まだ気絶《きぜつ》しないでいるのが不思議《ふしぎ》なぐらいだ。もうひとつでも、どこかに傷を受けたら、気を失ってしまうだろう。  痛む脚《あし》をひきずりながら、サーラは闇《やみ》の中を手|探《さぐ》りして、階段を這《は》い上がった。もうほとんど思考力は失われていた。ただ、逃げなければ、という強い衝動《しょうどう》だけに突き動かされていた。  階段を昇りきったものの、もう立ち上がる気力はなく、赤ん坊のように這い進む。床《ゆか》にはやけに石ころが転《ころ》がっており、割れ目だらけだった。心なしか、ガスリーの気配《けはい》が遠ざかったように感じる。うまく振《ふ》りきったのだろうか?  しばらく進んだところで、サーラはあたりの変化に気づいた。自分の息づかいや、足が床《ゆか》をひきずる音が、やけに大きく反響《はんきょう》している。広い空洞《くうどう》に出たらしい。  緊張《きんちょう》が少し解《と》けたために、気力がくじけ、急に手足から力が抜けた。床にばったりと横になり、乱れた息を整える。苦痛が去って欲しいと念じたが、落ち着きが戻《もど》ってくるにつれて、それまで忘れていた傷の痛みまでが襲《おそ》ってきた。サーラは闇の中にうずくまり、ぎゅっと握《にぎ》った拳《こぶし》で口を押さえ、声を殺してすすり泣いた。 「おおい! ガスリー!」  いきなりマイズの野太《のぶと》い声が響《ひび》いた。はっとしてサーラは顔を上げた。気を失いかけていたようだ。 「おおい! ガスリー! どこだ!」  闇の中で何かが見えないかと、サーラは目をこらした。空洞《くうどう》全体に反響《はんきょう》しているので、位置はよく分からないが、マイズが前方のどこかにいるのは確かだ。 「ここだ!」  ガスリーが応じる。こっちはサーラの後方から聞こえる。はさまれた! 「どこだよ!? 暗くて何も見えねえぞ」 「ここだよ——お前、ランタン持って来なかったのか?」 「ああ、急いでたんで忘れてた」 「しょうがねえなあ……何考えてんだよ」  ガスリーの声は着実に近づいてくる。どうやら、さっきサーラが這《は》い上がった階段を昇ってくるようだ。 「あのガキはどうした?」 「追い詰《つ》めたんだが、見失った。この近くにいるのは確かなんだが……」 「よし、俺《おれ》も探《さが》すぜ——」 「よせ!」ガスリーは慌《あわ》てて止めた。「下手《へた》に歩き回るな!」 「何でだよ?」 「お前はこの街に来て日が浅いから知らんだろうがな、ここは廃棄《はいき》地区だ」 「何だあ?」 「昔は人が住んでたんだが、大きな落盤《らくばん》があったんで、見捨てられた地区だ。床《ゆか》のそこらじゅうに穴が開いてるし、壁も崩《くず》れやすい。明かりもなしに歩き回るのは危険だ」 「ひえ……道理でやけに石ころが多いと思った」  サーラは震《ふる》え上がった。そんな危険な場所を走り回ってたなんて!  「チャーナクはどうした?」 「マローダに知らせに行ったよ」 「くそ! あいつがいれば光の精霊《せいれい》が呼べたのに! なんてちぐはぐなんだ!」  ガスリーが近づいてくる。穴に落ちないように、足で探《さぐ》りながら、一歩ずつ慎重《しんちょう》に歩いてくるようだ。 「くそ、煙突《えんとつ》を降りる時に脚《あし》を痛めちまった……」 「なあ……」マイズが弱気な声を出した。「こんなんじゃ、あのガキを見つけるのは無理《むり》じゃねえか?」 「俺もそう思う。このへん、迷路《めいろ》みたいだからな」 「だったら、あきらめようぜ。こんなとこでぐずぐずしてねえで、衛視《えいし》の手が回る前に、街から逃げた方がいい」 「ああ。俺も後悔してるところさ。逃げられたんで夢中《むちゅう》になって追いかけたが、考えてみりゃあ、あんなガキは放っておいて、街を出た方が良かったかもな……」  ガスリーの声と足音が、着実に近づいてきた。サーラは息を止め、手足を曲げて、胎児《たいじ》のような姿勢《しせい》を取った。手を伸ばせば届《とど》きそうな距離を、ガスリーが足を引きずりながら通過してゆく気配《けはい》がする。恐怖《きょうふ》と緊張《きんちょう》で気が狂いそうだった。早く通り過ぎてくれ、と心の中で叫ぶ。  ガスリーの気配が遠ざかってゆくと、サーラは静かに安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。とりあえず危機は去った——  その時。 「おおい、何やってんだい、お二人さん?」  頭上のどこかから、嘲笑《あざわら》うようなチャーナクの声が降ってきた。 「チャーナク!? どこにいるんだ!」 「あんたらの上。このホールのバルコニーだよ。まったく、見ちゃいられないねえ」 「あのガキを見失ったのが、そんなにおかしいかよ!」ガスリーは憤慨《ふんがい》した。 「見失ったってえ?」チャーナクはこらえきれずにゲラゲラ笑い出した。「こいつあ傑作《けっさく》だ! こんなマヌケな話は聞いたこともない!」 「何がおかしい!」 「精霊使いは暗闇でも目が見えるってこと、忘れたのかい? あんたの�見失った�ガキはな、ガスリー、あんたの十歩後ろにいるよ」  サーラは闇《やみ》の中で震《ふる》え上がった。 「何? どこだ!?」 「慌《あわ》てるな。今、見せてやるさ」  チャーナクが短く呪文《じゅもん》を唱《とな》えると、空中に青白い光の球体——ウィル・オー・ウィスプが出現した。ランプぐらいの明るさしかないが、暗闇《くらやみ》に慣《な》れた目には、太陽のようにまばゆく感じる。  球体はホールの中心にふわりと降下してくると、サーラの真上に静止した——おびえて床《ゆか》にうずくまる少年の姿が、三人の悪人の前にさらけ出された。  サーラは動けなかった。ウィル・オー・ウィスプは彼のすぐ頭上に、のしかかるように浮遊《ふゆう》している。立ち上がろうとすれば、頭をぶつけてしまうだろう。ウィル・オー・ウィスプは何かにぶつかると爆発《ばくはつ》すると、ミスリルに聞いたことがあった……。  尻餅《しりもち》をついた姿勢《しせい》で、思わず後ずさりする。その動きに合わせて、ウィスプむ高度を保ったまま、じりじりと移動する。陰険《いんけん》な動きだった。  逃げ場を求めて振り向いたサーラを、さらに戦慄《せんりつ》が襲《おそ》った。明るくなったのでようやく自分の居場所に気がついたのだ——大きな吹き抜けのホールのほぼ中心部だったのだが、ホールの床の半分は崩《くず》れ落ちて、深い穴になっている。穴の底は暗くて見えなかったが、大量の尖《とが》った瓦礫《がれき》が散乱しているだろうという想像《そうぞう》はついた。サーラがうずくまっていたのは、その穴の縁《ふち》ぎりぎりの場所で、闇《やみ》の中で這い進んだ方向がほんの少しずれていたなら、転落《てんらく》していたところだったのだ。  チャーナクが言ったように、ガスリーはほんの十歩の距離に立っていた。マイズはその向こう、ホールの入口をふさぐように立っている。たとえ立ち上がることができたとしても、傷ついた足で二人から逃げおおせるのは無理《むり》だろう。チャーナクはホールの二階を取り巻くバルコニーのどこかにいるらしいが、ウィスプの光にじゃまされて、姿はよく見えない。 「こんなところに……!」  ガスリーは驚《おどろ》きの声をあげた。チャーナクがくすくす笑う。 「まったく、見事に見失ったもんだな、ガスリー?」 「言うな!」  身動きできないでいるサーラに、ガスリーがゆっくりと近づいてきた。早足でないのは、床《ゆか》が崩《くず》れるのを警戒《けいかい》しているからだ。  彼は床に倒れているサーラの足許《あしもと》に立った。上からはウィル・オー・ウィスプに押さえつけられ、サーラは完全に動きを封《ふう》じられた格好《かっこう》だった。包丁《ほうちょう》を持った調理人《ちょうりにん》の前に置かれた魚のような心境だ。 「さて、どうするかな?」とガスリー。 「面倒《めんどう》だ、さっさと殺しちまえ!」とマイズ。 「まあ、待て」上の方からチャーナクの声がする。「もうじきマローダが来る。彼女に決めてもらおうぜ」 「生意気《なまいき》な口を利くな!」マイズはバルコニーを見上げて拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。「何でいちいちあんな女の命令に従わなくちゃならないんだ!? あいつが俺たちのリーダーってわけじゃないんだぜ!」 「へー? じゃあ誰がリーダーだって言うんだい?」 「それは——」 「あんたでもないことは確かよね、マイズ?」  そう言いながらホールに入ってきたのは、マローダだった。片手にランタンを掲《かか》げ、ウィル・オー・ウィスプとは対照的な赤っぽい光で、ホールを照らし出している。  サーラは絶望《ぜつぼう》のあまり気を失いそうになった。悪人たちが四人、勢ぞろいしてしまっては、助かる見込《みこ》みはまったくない。 「俺《おれ》はおめえに命令なんかされないからな、マローダ!」  マイズが食ってかかった。マローダは苦笑して、肩をすくめる。 「あたしがいつ、あんたを無理《むり》やり従わせようとした? あたしは命令なんかしない。その時その時で、正しいことを言うだけさ。あたしの言うことに従ってれば間違《まちが》いはない。これまでずっとそうだった——違うかい?」 「ほう? じゃあ、教えてくれよ。このガキの処分《しょぶん》はどうするんだ? ヴェラーズは何と言っていた?」 「それは——」マローダは急に口ごもった。 「どうなんだ?」  マローダは言いにくそうに言った。 「ヴェラーズには話はつかなかった。面倒《めんどう》なことになったから、ここ当分、取り引きは停止だとさ」 「じゃあ、このガキは?」  マローダは答えない。目を閉じて黙《だま》りこくり、心を決めかねている様子だった。 「おい、どうなんだ!」マイズはせっついた。「ここで殺すのか? それとも、もういっぺんヴェラーズと取り引きをはじめるまで——いつになるか分からねえが——どこかに隠《かく》して養っとくのか?」 「はっ! そんなの無理に決まってるだろ!」とガスリー。「どっちみち連中は俺たちを切り捨てるつもりに決まってる。それより、さっさとこの街を出た方がいい」 「殺す必要はないさ」マローダが自信なさそうに弁護した。「縛《しば》り上げて、ここに転《ころ》がしておけばいいんだ。あたしらが街から逃げのびる間だけ、じっとしていてくれれば——」 「こいつ、縛ってたのに逃げたぜ!」マイズが抗議《こうぎ》する。 「あんたの縛り方がまずかったからだろ」 「何だと!」 「ああ、いい加減にしてくれ」チャーナクのあきれかえった声が、二人の反目に水を差した。「何を面倒《めんどう》なことを議論してんだよ。どっちみち、俺たちゃみんな、捕《つか》まったら死刑間違いなしの極悪人《ごくあくにん》じゃないか。今さらそのガキ一人の命を助けたぐらいで、罪《つみ》が軽くなるとでも思ってるのか?」 「あたしは無益《むえき》な殺しはしないんだ」マローダは動揺していた。「あたしは……あたしは血に飢《う》えた怪物《かいぶつ》なんかじゃない!」  マイズは爆笑《ばくしょう》した。 「こりゃ参った! おめえが『血に飢えた怪物なんかじゃない』とはね! だったらヘルハウンドも小犬みたいなもんだぜ!」  マローダは大男をにらみつけた。不機嫌《ふきげん》と恥辱《ちじょく》で、顔が紅潮《こうちょう》している。 「チャーナクの言う通りですぜ」ガスリーも彼女を責めた。「あんたがそんなに弱気な女だとは思わなかった」 「どういう意味だい?」  マローダにすごまれ、ガスリーは肩をすくめた。 「これまでは、あんたがすご腕の悪党《あくとう》だと思ってたから、あんたに従ってきたんだ。かんじんなところで情に流されるようじゃあ、これから先、信頼《しんらい》できない。悪いけど、別行動を取らせてもらうよ」  今やマローダは孤立《こりつ》していた。精《せい》いっぱい威厳《いげん》を保とうと、腰に手を当て、しゃんと立っているが、部下たちに見離されようとしているのは明らかだ。ほんの一瞬《いっしゅん》、サーラは自分の置かれた境遇《きょうぐう》を忘れ、彼女を哀《あわ》れに思った。  彼女はゆっくりと顔をめぐらせた。憎しみをこめた目で、マイズとガスリーを交互ににらみつける。それから、二人の間に倒れているサーラに、ちらっと目をやった——しかし、すぐに視線をそらせてしまった。 「ああ……」マローダは肩を落とした。「ああ、そうだね」 「じゃあ……」 「その子は殺そう——ただし」  マローダは背を向けた。少年の姿を見たくなかったのだろう。 「苦しまないようにしてやりな——一瞬で」 「まかせとけって!」  チャーナクのはしゃぐ声がした。同時に、ウィル・オー・ウィスプがサーラの頭を押さえこもうとするかのように、ゆっくりと降下しはじめた。  サーラは床《ゆか》にぺたりと張りついた。ウィスプが顔面に迫《せま》ってくる。どこにも逃げ場はない。それが物体に触《ふ》れて崩壊《ほうかい》する時に生じる衝撃《しょうげき》は、大人なら耐《た》えられるかもしれないが、子供を殺すのには充分《じゅうぶん》な強さがある。  最後の瞬間《しゅんかん》にサーラが感じたのは、恐怖《きょうふ》でも絶望《せつぼう》でもなく、悔《くや》しさだった。こんなところで死ぬのか。夢の最初の一歩さえも踏《ふ》み出さないうちに……?  その時、真っ黒な影が音もなくホールをよぎった。それはウィル・オー・ウィスプの光をさえぎり、ホールの半分に闇《やみ》を生み出した。まるで黒いカーテンが空中に引かれたかのようだ。 「何!?」  チャーナクのうろたえる声がした。とっさにその闇の正体を見抜いたのは彼だけだった。それは光の精霊《せいれい》と反対の存在——|闇の精霊《シェイド》だった。  相反する二つの精霊がぶつかり合い、しゅっという小さな音とともに、互いを消し去った。あとにはマローダの提《さ》げているランタンの明かりだけが残った。 「そこまでだ!」  若い男の頼《たの》もしい声が、ホールに響《ひび》き渡った。サーラは驚《おどろ》いて首をめぐらせ、声のした方向を見た。崩落《ほうらく》した床《ゆか》の向こう側、ホールを取り巻く出入口のひとつに、黒い服に身を包んだすらりとした人影が立っていた。 「その子に手を出すな、マローダ!」  サーラはとても信じられなかった。その声には聞き覚えがあった。 「ミスリル!」 [#改ページ]    6 闇《やみ》の中の戦い  まるで奇跡《きせき》のようだった。壁《かべ》からベランダのように張り出した、崩《くず》れ残った床《ゆか》の上に、精霊使《せいれいつか》いミスリルはすっくと立っていた。  尖《とが》った耳とほっそりした体はエルフの特徴だが、純粋《じゅんすい》のエルフではなかった。ダークエルフの血が混《ま》じっているため、肌《はだ》は陽《ひ》に灼《や》けすぎたように異常《いじょう》に黒く、怒りのために剥《む》き出しになった歯の白きを際立《きわだ》たせている。  サーラは嬉《うれ》しさのあまり、駆《か》け寄って彼に抱きつきたくなった。ミスリルとの間に黒々とした深淵《しんえん》が横たわっていなかったら、そうしていただろう。崩れ落ちた床の割れ目は、飛び越えるにはあまりに大きすぎた。  だが、そんな障害《しょうがい》の存在などどうでもよかった。ミスリルが助けに来てくれたという事実だけで、サーラは絶望《ぜつぼう》から一転して有頂点《うちょうてん》になった。 「ミスリル……!」  マローダは一瞬《いっしゅん》、意外な出会いにたじろいだようだったが、すぐに蛇《へび》のような燃える眼を取り戻《もど》した。黒い深淵を隔《ヘだ》てて、二人の憎しみの視線がぶつかり合った。 「ふん、えらくタイミングが良すぎるじゃないの」マローダは心の動揺を押し隠《かく》し、へらず口を叩《たた》いた。「さてはさっきから隠《かく》れて様子をうかがってたんだね?」 「……まあな」ミスリルの声音《こわね》には、どこか悲しげな響《ひび》きがあった。「お前が心変わりして、その子を助けるんじゃないかと期待してた。だから最後の最後まで待ったんだ。お前とはやり合いたくなかったからな……」 「あい変わらず甘いのね」マローダは小馬鹿《こばか》にしたように言った。「でも、あんたのそんなとこ、好きだったんだよね……」 「ああ、俺《おれ》も好きだったさ。昔のお前はな——だが、今は違う」ミスリルは氷のように冷やかな口調《くちょう》で怒りを表現した。「もっと早く決着をつけるべきだったな……」  マローダはせせら笑った。「やり合おうっての? 一対四で? あたしと差しでも勝てないくせに!」 「誰《だれ》が一人で来たと言った?」  背後から聞こえた女の声に、マローダはぎょっとして振《ふ》り返った。さっき彼女が入ってきた入口から、たくましい長身の女戦士がぶらりと入ってきた。急いで駆《か》けつけてきたせいか、鎧《よろい》は着けていないが、男のように太い腕《うで》には大きなフレイルが握《にぎ》りしめられている。短い銀髪の下の顔は、精悍《せいかん》な野獣《やじゅう》のようだった。 「レグ!」サーラは歓喜《かんき》の声をあげた。  女戦士レグは、悪人たちをにらみつけ、にっと残酷《ざんこく》な笑《え》みを浮かべた。「よくもあたしらのダチをひどい目に遭《あ》わせてくれたね……!」  その気迫に押され、ガスリーが逃げる気配を見せた。しかし、振り返った彼は、退路《たいろ》もすでに絶たれているのを知った。もう一方の出入口には、茶色い髪《かみ》をした青年が、レイピアを掲《かか》げて立ちふさがっている。 「降伏《こうふく》しろ——と言っても無駄《むだ》かな」デインはぼやくように言った。「さっき、捕《つか》まったら死刑だって、自分で言ってたからな」  レグとデインは、それぞれ一歩を踏《ふ》み出した。三人の悪党を両側からはさみこむ形になる。マローダたちには逃げ場がない。床《ゆか》の割れ目に飛びこむことはできるが、負傷する危険が大きかった。  ガスリーとマイズがうろたえているのに比べ、マローダはいくらか冷静だった。腰《こし》のショート・ソードを抜き放つと同時に、素早く四方に視線を走らせて、この状況《じょうきょう》を打開する方法を探《さが》そうとしている。 「もう一人、ハーフエルフの女がいただろ?」彼女は油断なくあたりを観察しながら言った。「どこだ?」 「さあ、どこかな?」ミスリルはとぼけた。  マローダは舌を鳴らし、レグに対峙《たいじ》した。レグはまだ戦闘《せんとう》圏内には入っておらず、立ち止まったままだ。お互いに距離を置いて、相手の何気ない動作に注意を払い、腕前を見極めようとしている。敵の技量《ぎりょう》を読み損《そこ》なうことは、死を意味するのだ。  サーラはゆっくり立ち上がった。戦いの前の緊張《きんちょう》が高まっているのが感じられ、背筋に寒気が走るのを覚える。かつてキマイラとの戦いの直前にも、同じ戦慄《せんりつ》を感じたのを思い出した。恐怖《きょうふ》と言うよりは快感に近い感覚だった。  誰も言葉を発さず、誰も動こうともしなかった。沈黙《ちんもく》がホールを支配していた。お互いの息の音さえ聞こえそうだった。 「マイズ!」突然、マローダが叫んだ。「その子を人質《ひとじち》に取りな!」  その言葉で呪縛《じゅばく》から解《と》き放たれたかのように、マイズが動いた。振《ふ》り返り、サーラを押さえこもうと飛びかかってくる。  だが、その作戦はミスリルの予想|済《ず》みだった。男のごつい手がサーラの肩に届《とど》くより一瞬《いっしゅん》早く、精霊《せいれい》を呼び出す呪文《じゅもん》が飛ぶ。岩の床《ゆか》にひそんでいた地の精《ノーム》が、短い腕をにょっきり伸ばし、マイズの足首をひっかけた。  勢い余って、マイズは派手《はで》に転倒《てんとう》した。とっさに肩を引いたサーラの横をすり抜け、悲鳴《ひめい》をあげながら暗黒の深淵《しんえん》に落下する。ずしんという重い音がした。  ほとんど同時に、バルコニーからチャーナクの放った二つ目のウィル・オー・ウィスプが降ってきた。まっすぐにミスリルを狙《ねら》っている。しかし、ウィスプはミスリルの肩ではじけて壊《こわ》れ、服にわずかな焦《こ》げ痕《あと》を残しただけだった。  ガスリーは一瞬、マイズに代わってサーラを捕《とら》えるべきかと迷った。しかし、そうはさせじとデインが飛びこんできた。ガスリーは踏《ふ》みとどまって、剣を交えるしかなかった。背中を見せれば、背後からレイピアでひと突きにされてしまう。  キン! レイピアとショート・ソードのぶつかる澄んだ音がホールに反響《はんきょう》した。しかし、剣の腕ではデインがわずかに勝っているらしく、ガスリーが刃先をかわしきれずによろめくのがサーラにも分かった。  レグも野獣のような叫びをあげながら突進してきた。マローダはとても応戦する余裕《よゆう》などなく、口の中で何かぶつぶつ唱えながら、重たいフレイルの攻撃《こうげき》をよけるのが精《せい》いっぱいだ。 「サーラ、跳《と》べ!」  レイピアを振り回してガスリーの動きを牽制《けんせい》しながら、デインが怒鳴《どな》った。サーラは意味が分からず、「え?」と問い返した。 「そうだ、跳べ!」レグも怒鳴った。「あたしらを信じろ! 跳べ!」  考える時間も、恐怖《きょうふ》を感じる余裕もなかった。サーラは二人の言葉に運命を託《たく》し、思い切って床を蹴《け》った。  その瞬間、マローダの呪文《じゅもん》が完成した。まるで誰かがカーテンを引いたように、ホールは再び漆黒《しっこく》の闇《やみ》に閉ざされる。レグの目をくらますために「暗黒《ダークネス》」の呪文を使ったのだ。まったくの闇の中で、サーラは宙《ちゅう》に浮いていた。  落ちる!  闇と落下に対する強烈な恐怖が、落ちたくないという無意識《むいしき》の意志となった。上下の感覚すら失われていた。闇の中で水車のようにくるくる回転しながら、サーラは激突《げきとつ》の瞬間《しゅんかん》を待ち受けた。足から落下して骨がぐちゃぐちゃになるのか、それとも頭から落ちて即死するのか……。  だが、その瞬間はいっこうにやってこなかった。五秒が過ぎ、十秒が過ぎる頃には、さすがにサーラもおかしいと気づきはじめた。いくら深い穴でも、とっくに底に達していていいはずだ。それどころか、風を切って落下している感じすらしない。 「もうだいじょうぶよ、サーラ」頭上から聞き覚えのある女の声がした。「眼を開けなさい——ただし、ゆっくりと。びっくりするといけないから」  その指示に従って、サーラはおそるおそる眼を開いた。  いつの間にか闇は晴れていた。「暗黒《タークネス》」を打ち消す呪文《じゅもん》が唱《とな》えられたのだ。そして、すぐ頭上に、なつかしい顔があった。 「フェニックス……?」  赤髪《あかがみ》の美しいハーフエルフの笑顔《えがお》を見上げ、少年は首をひねった。彼女が魔法《まほう》を使って助けてくれたのだということは分かった。でも、何であんなふうに天井《てんじょう》からコウモリみたいにぶら下がっているんだろう……?  突然、正常な上下感覚が戻《もど》ってきた。サーラは愕然《がくぜん》となった。フェニックスが逆さまにぶら下がっているわけではない。彼の方が頭を下にして、何もない空中に浮かび、岩の散乱する床《ゆか》を見下ろしているのだ。 「うわあ!?」  悲鳴《ひめい》をあげた拍子《ひょうし》に、がくんと落下した。フェニックスが慌《あわ》てて受け止めようとする。  しかしそれは杞憂《きゆう》だった。サーラは自分の身長分ほど落下して止まった。完全に静止したわけではなく、ゆっくりと落ち続けている。  古代語魔法の「落下制御《フェーリング・コントロール》」である。この魔法がかかった者は、地面から浮かび上がることはできないものの、意志の力で落下の速さを遅《おく》らせられるのだ。サーラが落ちることを予期して、フェニックスが床下で待機《たいき》していたのである。 「落ち着いて……慌《あわ》ててはだめ……心が乱れたら落ちてしまうわよ」  そう呼びかけながら、フェニックスはほっそりした白い腕を頭上に差し伸べた。サーラも手を伸ばす。二人の手がからまった。さかさまの姿勢《しせい》でゆっくり降下してきた少年は、ハーフエルフの娘の胸に優しく受け止められた。体が回転《かいてん》し、足が床に着く。 「だいじょうぶ?」  フェニックスのいたわりの声に、サーラは何度もうなずいた。全身、煤《すす》と埃《ほこり》にまみれ、傷だらけだったが、助かったという安堵感《あんどかん》が何よりの鎮痛剤《ちんつうざい》だった。  ごとり。背後で音がした。フェニックスはとっさにサーラをかばう姿勢《しせい》を取った。 「うう……ちくしょう……」  岩蔭《いわかげ》からうめきながら起き上がってきたのはマイズだった。服についていた砂粒や石のかけらが、ざらざらと流れ落ちる。上の階から落ちてきて、岩のかけらが散乱する床《ゆか》にまともに叩《たた》きつけられたのだ。額が割れ、顔面をだらだらと血が流れ落ちている。肋骨《ろっこつ》を折ったらしく、胸を押さえて苦しげだった。 「下がって……」  フェニックスはサーラを自分の背後に押しやると、体重が自分の倍ぐらいありそうな大男と対峙《たいじ》した。魔法の杖を掲《かか》げ、呪文を唱《とな》える態勢に入る。 「この野郎……!」  苦痛と敗北感で完全に正気を失った大男は、娘と少年に襲《おそ》いかかろうと、よろよろと向かってきた。哀れな姿であったが、フェニックスは同情しなかった。杖を振《ふ》り回し、踊るような身振りをしながら、強力な攻撃《こうげき》呪文を唱える。 「ブラスティート!」  まばゆい紫色の電光がマイズの厚い胸板に炸裂《さくれつ》した。轟音《ごうおん》とともに火花が飛び散り、恐ろしい悲鳴《ひめい》があがる。  驚《おどろ》いたことに、それでもマイズは倒れなかった。なおもうなり声をあげながら、よたよたと突進してくる。今や闘争《とうそう》本能だけに突き動かされているのだ。レザー・アーマーの胸の部分は大きく裂《さ》け、青い煙をあげてぶすぶすとくすぶっていた。その裂《さ》け目から焦《こ》げた肉が露出《ろしゅつ》しているのを目にして、サーラは気分が悪くなった。  瀕死《ひんし》のマイズは最後の気力を振《ふ》り絞《しぼ》り、フェニックスに殴《なぐ》りかかった。その気迫に押されたのか、彼女は身をかわすのが遅れた。胸を強く突かれ、フェニックスは小さな悲鳴をあげてよろめき、転倒《てんとう》した。マイズはにやりと笑うと、もう一撃をくわえようと、大きく腕を振り上げた。  その時、何十個もの石つぶてが彼の足許の床からはじけ飛んだ。全身に激しい石の雨を浴《あ》び、マイズは狂ったあやつり人形のように踊った。手足に当たって跳ね返った石が何個か、サーラたちの方にまで飛んできた。階上にいたミスリルがフェニックスの苦境に気づき、精霊魔法《せいれいまほう》で援護《えんご》したのだ。  それが致命的《ちめいてき》な一撃となった。石の雨が止むと、マイズはゆっくりと体をひねりながら、床《ゆか》に崩《くず》れ落ちた。  その光景は、サーラに安堵感《あんどかん》よりもむしろ戦慄《せんりつ》を覚えさせた。目の前で人が死ぬのを見るのは初めてだった。 「怪我《けが》はないか?」  ミスリルが声をかけてきた。フェニックスは埃《ほこり》を払いながら起き上がった。 「私は平気……それよりサーラが傷だらけだわ」 「ちょっと待て」  そう言ったのはデインだった。崩れた床の縁《ふち》にしゃがみこんで、フェニックスとサーラを見下ろし、祈りの言葉を唱《とな》える。  サーラは全身が不思議《ふしぎ》な熱気に包まれるのを感じた。炎の発する熱や、病気の時に感じる熱とは正反対の、春の陽差《ひざ》しにも似たぬくもりだった。目に見えない誰かに抱きしめられているかのようだった。全身の傷の痛みが潮《しお》のように引いてゆく。  肘《ひじ》に触《ふ》れてみたサーラは、いつの間にか傷が消えているのに驚いた。膝《ひざ》の傷も同様だ。デインの神聖魔法《しんせいまはう》のおかげだ。 「上の様子はどう?」  フェニックスは訊《たず》ねた。デインは悲しそうに首を振《ふ》った。 「一人は殺した——殺すつもりじゃなかったんだがな」  ガスリーのことである。若いレンジャーはホールの床《ゆか》に倒れ、絶命《ぜつめい》していた。  チャ=ザの司祭《しさい》として、デインは無益《むえき》な人殺しは好まなかった。ガスリーに切りかかったのも、サーラに近寄らせまいとする牽制《けんせい》のためで、あわよくばこちらの気迫に押されて降伏してくれれば、という期待があったのだ。しかし、あの暗闇《くらやみ》の中ででたらめにレイピアを振《ふ》り回したら、偶然《ぐうぜん》にガスリーの咽喉《のど》を裂《さ》いてしまったらしい。 「マローダは?」 「闇《やみ》にまざれて逃げたよ。レグが追いかけてる」 「俺《おれ》たちも探《さが》しに行く」とミスリル。「マローダはやばい女だ。レグ一人じゃ危ないからな。サーラを頼《たの》んだぞ」 「分かった」  デインとミスリルは身をひるがえし、サーラたちの視界から姿を消した。二人の駆《か》け去る足音が聞こえた。  サーラははっとして、フェニックスを見上げた。 「もう一人、バルコニーに精霊使《せいれいつか》いがいたよ!」  フェニックスはうなずいた。「ええ、ちらっと見たわ。でも、たぶんもう逃げたでしょうね」 「戻《もど》って来ないかな……?」 「心配は要《い》らないわ。仲間が二人も倒されたのを見たら、よほどの馬鹿《ばか》でないかぎり、私たちとまともにやり合おうなんて思わないでしょ。逃げるので精いっぱいのはずよ」 「そうだね。みんな強いもんね」 「傷はどう? 痛まない?」 「うん、すっかり平気だよ。でも……」 「でも?」  サーラは照れ笑いをした。「お腹がすいた」 「おい、マローダ! もう逃げ場はねえぞ!」  レグは敵を袋小路《ふくろこうじ》に追い詰《つ》めていた。マローダはさきほどから、通路の突き当たりに積み上げられた古い家具の山に身をひそめている。この地区の住民が退去する時に捨てて行ったものだろう。  マローダにしてみれば、自分をののしりたくなるような、ひどいドジだったろう。「暗黒《ダークネス》」をかけてホールから逃げ出したのはいいが、闇《やみ》の中で道を間違《まちが》え、よりにもよって一本道に迷いこんでしまったのだ。  しかし、レグの方でも、うかつに攻撃《こうげき》を仕掛けられない事情があった。ミスリルの話では、マローダは高度な古代語魔法の使い手で、特に幻影《げんえい》の使い方に長《た》けているという。うかつに踏《ふ》みこめば罠《わな》にかかってしまう。だからマローダの視野に入らないよう、曲り角から様子をうかがっているのだ。  この通路は完全な闇ではなく、狭《せま》い明かり取りの窓がレグの背後にあるため、満月の夜ぐらいの明るさはあった。しかし、マローダのひそんでいるはずのあたりは闇に沈んでおり、動きがよく見えない。 「出てきな! そこに隠《かく》れてるのは分かってるんだ!」 「はん、そっちから来たらどうなのさ!?」  マローダが言い返す。短気な性格のレグだったが、これほどあからさまな挑発《ちょうはつ》に乗るほど愚《おろ》かではなかった。魔法の危険性はよく知っている。 「根比べなら、そっちが不利だぜ!」レグは怒鳴《どな》った。「こっちはもうじき仲間が来るんだからな!」  その言葉で、マローダは決心を固めたようだ。ガラクタの蔭《かげ》にいっそう小さくうずくまり、何かごそごそやっている気配《けはい》がする。レグは緊張《きんちょう》した。  いきなりマローダが飛び出してきた。得意げな表情で、その横には凶暴《きょうぼう》そうな虎《とら》を従えている。虎は口を大きく開けて、音もなく吠《ほ》える身振りをすると、レグに向かって一直線に突進してきた。 「ちゃちな手だ!」  レグはせせら笑った。虎が幻影《げんえい》なのは明らかだ。フレイルを構えると、曲り角から飛び出し、虎を無視してマローダに突進する。  幻影だと思いこんでいた虎が、恐ろしい質量《しつりょう》を伴ってぶつかってきたので、レグは完全に不意をつかれた。後ろにひっくり返り、虎にのしかかられる。虎は鋭《するど》い牙《きば》でレグのむきだしの腕《うで》に噛《か》みつくと、犬が穴を掘るように、前足の爪《つめ》で激《はげ》しく彼女の胸をかきむしった。  レグは悲鳴《ひめい》をあげた。服がずたずたに裂《さ》け、血が飛び散る。 「レグ!」  デインが通路を駆《か》けてきた。虎はぐったりとなったレグから飛び離れると、デインに向かって行った。  血まみれの虎が突っこんできたので、デインは思わずたじろぎ、身をかわした。通り過ぎざま、虎は彼の上着の袖《そで》を引き裂《さ》いて行った。  虎は闇《やみ》の奥に走り去った。なすすべもなくそれを見送った後、デインはすぐに瀕死《ひんし》のレグに駆け寄り、神聖魔法《しんせいまはう》で傷を治療《ちりょう》した。 「だいじょうぶか?」  デインに助け起こされ、レグは「あいつめ……」と毒《どく》づきながら立ち上がった。傷は治ったものの、足許《あしもと》がふらついている。  二人は通路の奥を振り返った。まだそこにはマローダが立っていた——彼らを嘲笑《あざわら》うかのように、得意げな表情で。  レグはふらふらとそれに近づいた。マローダは表情を変えない。身構えて、じっと静止したままだ。レグはすぐそばまで近寄ると、その得意げな笑《え》みをめがけて、怒りのパンチを打ちこんだ。  挙《こぶし》は空を切った。レグの腕はマローダの幻影《げんえい》にすっぽりめりこんだ。  ガラクタの山の蔭《かげ》には、マローダの脱《ぬ》ぎ捨てた衣服があった。彼女はまず魔法で虎に変身してから、自分の姿を幻影で創《つく》り出し、レグを欺《あざむ》いたのだ。 「ちくしょう!」  レグは拳を壁《かべ》に叩《たた》きつけ、悔《くや》し涙を流した。完全な敗北だった。 [#改ページ]    7 ミスリルの望んだ結末  廃棄《はいき》地区からサーラをつれ出したフェニックスは、手近な大衆食堂に入った。ちょうど昼食時の少し前なので、客はそれほど多くない。料理が運ばれてくるまでの短い時間が、サーラにはもどかしくてたまらなかった。逃げ回るのに夢中《むちゅう》で気がつかなかったが、夕べから何も食べていなかったのだ。  火傷《やけど》しそうに熱い魚を手づかみでがつがつ頬張《ほおば》る少年を、フェニックスは愛《いと》しそうに見つめていた。傷はすっかり治ったものの、顔も髪《かみ》の毛も煤《すす》だらけで、服はボロボロ、靴《くつ》も片一方なくしているという、まったくひどい格好《かっこう》だった。知らない人が見たら煙突掃除《えんとつそうじ》の少年だと思うだろう——実際、ザーンにはそういう職業の子供が多いので、サーラの格好はたいして人目を引かなかった。 「まずお風呂に行って……服も買わなくちゃね」  そうフェニックスは言ったが、サーラは食べるのに夢中で気がつかなかった。  空腹が満たされると、それにつれて不安も過去のものになっていった。と同時に、慌《あわ》ただしくて気がつかなかった数々の疑問が、どっと湧《わ》き上がってきた。 「でもさあ」サーラは魚の尻尾《しっぽ》をばりばりかじりながら言った。「どうして僕があそこにいることが分かったの?」 「デルが教えてくれたのよ」 「デル?」 「あなたと同じぐらいの女の子。盗賊《とうぞく》の卵でね。ちょくちょく街の外壁《がいへき》で岩登りの練習してるわ」  サーラは絶壁《ぜっぺき》で助けを求めた少年のことを思い出した。 「女の子だったのか……」 「よく男の子に間違《まちが》われてるわ。あなたと反対——あ、ごめんなさい」 「いいよ、言われ慣《な》れてるから」  サーラは肩をすくめた。フェニックスが相手では怒るわけにいかない。 「ともかく、デルの知らせてくれた様子から、あなたが廃棄地区の方に向かってるって見当がついたの。それで駆《か》けつけてみたら、マローダや他の連中《れんちゅう》が集まって、あなたを取り囲んでるじゃない。いきなり踏《ふ》みこんで、あなたにもしものことがあったらまずいと思って、機会をうかがってたのよ。心配かけてごめんなさい」 「いいよ、みんな来てくれたんだから! 僕、すっごく嬉《うれ》しい!」  サーラの素直な感情表現に、フェニックスは微笑《ほほえ》んだ。大人になると、嬉しい時に「嬉しい」とは言いにくくなるものなのだ。 「ねえねえ、知ってる? あいつら、人さらいだったんだよ。僕、売り飛ばされるとこだった」 「ええ」フェニックスはちょっと悲しそうにうなずいた。「ミスリルは前からうすうす気がついてたみたい。マローダが悪い連中と組んで、人の道をはずれるような仕事に手をつけてたことに——でも、私たちには何も言わなかったわ」 「ミスリルはマローダと知り合いだったの?」 「らしいわ。私たちと組む前のことだから、詳《くわ》しいことは知らないけど……それでデルが『月の坂道』に駆《か》けこんできて、あなたが人さらいに追われてるって言った時に、マローダがからんでるってピンときたみたい」 「ふーん?」サーラは首を傾《かし》げた。「悪い奴《やつ》だって分かってたんなら、どうしてもっと早くやっつけちゃわなかったんだろう?」  フェニックスは苦笑した。「そう簡単にいくものじゃないわ」 「どうして?」 「大人《おとな》の話よ。子供には分からないわ」 「そんなことないよ! いくら昔好きだったって、悪い奴は悪い奴だよ! 悪い奴はやっつけなくっちゃ!」 「ねえ、サーラ……」  フェニックスは顔を寄せ、煤《すす》だらけのサーラの顔をのぞきこんで、優しく語りかけた。 「世の中には良いことと悪いことがあるわ。子供の頃には、その区別がはっきり分かるような気がするものなの。でも、大人になればなるほど、何が良くて何が悪いのか、なかなか言えなくなってくるのよ」 「どうして?」 「この世には他にもいろいろな問題があることが分かってくるから……好きとか嫌いとかもそのひとつね。良いことだけど嫌いだってことや、悪いことだけど好きだってことはあるわ。あなたには分からないかもしれないけど」 「うん……」 「だから、ミスリルを責めないであげてね。あの人だってきっと、マローダのことでずいぶん悩んだはずだから」 「…………」 「そうそう」  フェニックスは話題を変えるために、つとめて明るい声を出した。 「慌《あわ》ただしくて大事なことを言うの、忘れてたわね」 「何?」 「ようこそザーンに、サーラ。歓迎するわ」  同じ頃——  下町の酒場「深海の罠《わな》」の主人は、表の扉《とびら》をどんどんと叩《たた》く音に目を覚ました。この店は彼の家でもあり、店の奥にある小部屋《こべや》に寝泊《ねとま》りしているのだった。 「何だあ、今時分……?」  彼は不機嫌《ふきげん》な声を出した。小さな明かり取りの窓から差しこむ外の光は、まだ昼前であることを告げていた。酒場は日没直前に開店し、夜明け前に閉まる。酒の仕入れなどをはじめるのも午後になってからだ。普通《ふつう》の市民と逆の生活をしている彼にとって、今は熟睡《じゅくすい》しているべき時間なのだ。  扉を叩く音はなおも続いている。彼はぶつぶつぼやきながら、隣《となり》で寝ている妻を起こさないように、ベッドから起き上がった。いつもベッド脇《わき》に置いてあるランタンに火口箱から火をつけると、ガウンをはおり、スリッパをつっかけ、細長い店内を横切って入口に向かう。  この店の名前が「深海の罠」だと知ったら、サーラはさぞ悔しがることだろう。というのも、ここは少年がマローダに「月の坂道」だと教えられてつれこまれた店だからだ。  扉《とびら》に近づいた主人は、いつもの習慣通り、扉の装飾《そうしょく》に見せかけた覗《のぞ》き穴から外の様子をうかがった——しかし、小さな穴から見える範囲《はんい》には、人影は見えない。この店と同様、下町のこのあたりにある店はすべて、夜だけ営業しているので、朝のこの時間帯は、死んだように静かだった。  それなのにまだ扉を叩く音がしている。下の方からだ。よく聞くと普通のノックではなく、爪《つめ》でがりがりこする音が混《ま》じっている。 「ん……?」  主人は首をひねりながら、鍵《かぎ》をはずし、扉を少しだけ開いて、扉を叩くものの正体を見極めようとした。おおかた子供のいたずらか、迷いこんだ野良犬のしわざだろうと思いながら——扉を薄く開けたとたん、大きな動物が扉を押し開いて飛びこんできた! 「うわあ!?」  主人は情けない悲鳴《ひめい》をあげた。よろよろとぶざまに後ずさりし、テーブルにぶつかる。  ランタンの光に浮かび上がったそれは、美しい毛並みの虎《とら》だった。口の回りが血で真っ赤に濡《ぬ》れている。  虎は後ろ足で器用に扉を蹴って閉めると、恐怖《きょうふ》と驚《おどろ》きのあまり口をばくばくさせている主人を無視し、ひょいとカウンターに飛び乗った。その拍子《ひょうし》に、カウンターの隅《すみ》に積んであった空ジョッキの山を、尻尾《しっぽ》でひっかけてしまった。ジョッキはがらがらと派手《はで》な音を立てて床《ゆか》に散らばった。 「どうしたってのよ……?」  主人の妻が、ぼさぼさの頭をかきむしり、眠い目をこすりながら奥から出てきた——しかし、カウンターの上にいる虎を見たとたん、腰《こし》を抜かしてしまった。  虎はひらりとカウンターの裏側に飛び降り、姿が見えなくなった。その隙《すき》に主人は逃げ出そうとして、戸口にそろそろと近づいた。 「待ちなよ、ヴェイン」  そう言いながら、カウンターの蔭《かげ》からマローダが起き上がった。服を着ておらず、腕組みするようなポーズで胸を隠《かく》している。しなやかな指と、口の回りには、血がべっとりとこびりついている。主人は目を丸くした。 「マ、マローダ……!?」 「逃げなくていいよ。お別れのあいさつを言いに来ただけだ」 「お別れ……?」 「ああ。ドジ踏《ふ》んだもんで、この街にいられなくなった。ついては、あんたに預けておいたものを返してほしい」 「預けたものっていうと……?」 「とぼけるなよ」マローダは真っ赤に濡《ぬ》れた指をヴェインに突きつけた「例の宝石さ」 「ああ、そうか……」 「急いでんだ。早く持ってきてよ——それと奥さん、あんたの服の中でいちばんいいのを一着、恵んでくれるとありがたいんだけどね」  ヴェインは妻に目くばせした。妻は慌《あわ》てて奥に駆《か》け戻《もど》った。 「やだ、これじゃ道化師《どうけし》みたいだ」  カウンターの後ろにあった鏡に映った自分の姿を見て、マローダは顔をしかめた。口の回りについた血は、まるで子供が化粧《けしょう》道具をいたずらして、口紅をめちゃくちゃに塗《ぬ》りたくったように見える。マローダは近くにあったタオルで顔を拭《ふ》き、指をぬぐった。  ヴェインの妻は、一分もしないうちに、小さな革袋《かわぶくろ》と自分の一張羅《いっちょうら》の服を持って戻ってきた。マローダは袋の中身を確認した。 「ひい、ふう、みい……何か足りない気がするねえ?」  彼女にじろっとにらまれ、ヴェインは慌ててかぶりを振った。 「ちょ、ちょっと借りただけさ。いい儲《もう》け話があったもんで……後で増やして返そうと思ってたんだ。本当だ」  マローダは、ふんっと鼻を鳴らし、肩をすくめた。「ま、いいさ。この服でチャラにしといてやるよ——やれやれ、高い服だこと」  サイズの合わない上着に無理して袖《そで》を通しながら、彼女は言った。 「言っとくけど、あんたらを殺さないのは、殺してる暇がないだけだからね。それだけは覚えといてよね」 「ああ」ヴェインは唾《つば》を飲みこんだ。「覚えとくよ」 「ま、たぶんもう会うことはないだろうけど——」  彼女がさらに何か言おうとした時、扉がばたんと勢いよく開いた。店内にいた三人は驚《おどろ》いて振《ふ》り返った。  そこにはミスリルが立っていた。 「また、あんたか!」マローダは露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をした。「よくもまあ、あたしの後をぴったり追って来れるもんだね。どんな鼻してんのさ?」 「虎が下町に駆《か》けて行くのを見た奴がいてな」とミスリル。「お前の行きつけの店だろうって見当をつけただけさ」  ミスリルは後ろ手に扉を閉めた。彼を倒さない限り、外には出られない態勢だ。  マローダは素早く状況《じょうきょう》を判断《はんだん》した。この店には裏口がない。奥の部屋《へや》に明かり取りの窓があるのは知っていたが、狭《せま》すぎて出入りは困難である。つまり、またもや追い詰《つ》められたわけだ。  だが、今度はさっきの場合より余裕《よゆう》があった。女戦士の実力は未知だったが、ミスリルの手の内はよく知っていた。 「見たとこ、今度はあんた一人みたいだけど?」マローダは不敵に微笑《ほほえ》んだ。「それともまた助けが来るかしら?」 「どうだかな」ミスリルは曖昧《あいまい》に答えた。 「言っとくけど」マローダは血で汚《よご》れたタオルを見せびらかした。「あんたのお仲間の女戦士はやっつけたわよ」  ミベリルの冷静な表情が、ぴくりと動いた。はったりなのか、真実なのか、見極めがつかない様子だ。  マローダは心の中で舌打ちした。自分がミスリルのやり方をよく知ってるように、ミスリノルも彼女のやり方に通じている。はったりで相手をびびらせるのは彼女のいつもの戦法だが、今回はそれが裏目に出た。女戦士を倒したのは事実なのに、ミスリルにははったりだと思われてしまう。 「とにかく」マローダは気を取り直した。「あたしは行かせてもらうわ。そこをどいて」 「だめだ」ミスリルはきっぱりと首を振《ふ》った「行かせるわけにはいかない」 「あたしに勝てる自信があるとでも言うの?」 「やってみなくちゃ分からんさ」 「あたしとやろうっての?」マローダは面白《おもしろ》そうに言った。「このあたしと[#「このあたしと」に傍点]?」  そう言いながら、彼女はのっそりとカウンターから身を乗り出した。隠《かく》れていた下半身が明らかになった。  ミスリルは見慣《みな》れているので平気だったが、ヴェインの妻は悲鳴《ひめい》をあげ、失神してしまった。ヴェインも信じられないものを目撃《もくげき》し、顔を真っ青にして、床《ゆか》にぺたんと座りこみ、歯をがちがち鳴らしている。  マローダは上着を着ていたが、まだスカートをはいていなかった。上半身は人間の女だが、腰《こし》から下は大きな蛇《へび》だ。ゆるやかに波打ち、くねっているが、尻尾《しっぽ》までぴんと伸ばせば、この店の端から端まであるだろう。ランタンの光を反射して、その鱗《うろこ》はなまめかしくきらめいている。  幻獣《げんじゅう》ラミア——それがマローダの真の姿だった。  カウンターをするりと乗り越えた彼女は、床《ゆか》の上にとぐろを巻いた。 「どいてよ、ミスリル」マローダはもう一度だけ言った。「あんたを殺したくはないわ」 「そうか? 俺《おれ》はお前を殺せるぞ」 「はん! 虚勢《きょせい》はやめてよ! 実力の違いは分かってるはずよ。虎に変身したら、あんたなんかずたずただわ。勝てるわけがないでしょ!」 「いつもならな」とミスリル。「いつものお前で、いつもの俺なら、勝てないさ」 「どういうこと?」 「前に話してくれたことがあったっけな? 変身はやたらに疲れる。一日に三回がぎりぎり限度だって……」  マローダはたじろいだ。「そ、それがどうしたって言うのよ!?」 「お前はついさっき、虎に変身した。レグと戦った時に、おそらく他の魔法《まほう》も使ってるだろう。となると、あと一回、変身できるかどうかだ」 「…………」 「俺と戦うのに、もういっぺん変身するわけにはいかない。たとえ俺を殺したとしても、その後でどうやって逃げるつもりだ? その姿に戻《もど》るか? それとも虎の姿のままで市門を突破《とっぱ》するか? いくら衛視《えいし》どもがぼんくらでも、そんなに大きな野良猫は通してくれないだろうよ」 「う、うるさいわね!」  マローダは完全に取り乱していた。ミスリルにすっかり手の内を読まれている。たとえ幻獣《げんじゅう》と言えども、短時間に魔法を連発することはできない。精神《せいしん》が急激に消耗《しょうもう》すると、失神する危険があるのだ。 「それにな、俺もいつもの俺じゃない」  ミスリルはそう言って、腰《こし》からダガーを引き抜き、マローダの眼前にちらつかせた。その刃には真っ黒い煤《すす》のようなものが塗《ぬ》られている。 「分かるか? 毒《どく》だ。『|暗い刃《ダークブレイド》』っていう名前ぐらいは聞いたことあるだろう?」 「あ……」 「お前の心臓に突き立てる必要はない。ほんのちょっと、肌《はだ》を傷つけるだけでいいんだ。毒は傷口から侵入《しんにゅう》して、お前の全身に回る。たとえ俺を殺せたとしても、お前も長くは生きられない……」  マローダは困惑《こんわく》した。ミスリルがそこまで決意しているとは信じられなかった。冒険者《ぼうけんしゃ》たちは毒物《どくぶつ》を使うことを極端に嫌う。それは彼らのモラルであり、ルールだった。毒を用いるのは卑劣《ひれつ》な行為とされており、一度でもその禁を破った者は、仲間から爪《つま》はじきにされてしまう。自分たちは暗殺者《あんさつしゃ》でも悪党でもないという誇りがあるからだ。もちろんミスリルも、その誇りを大切にしていた。  冒険者が毒を使うのは、命も名誉もかなぐり捨てなくてはならないほど、追い詰《つ》められた時だけなのだ。 「あんた……分かってんの? 自分のやってることが……」 「もちろんだ」ミスリルの口調《くちょう》には一点の迷いもなかった。「確かに俺は勝てないかもしれない。いや、たぶん負けるだろう。だが、お前を生かしておくわけにもいかない」 「…………」 「お前がそうなった責任は、半分は俺にもある。決着はつけるべきだと思う」 「ミスリル……」  マローダの表情が歪《ゆが》んだ。今にも泣き出しそうだった。  彼女にはある種の甘えがあった。どんな苦しい状況《じょうきょう》だろうと、自分がどんなにわがままを言おうと、ミスリルは耐えてくれる、許してくれると思いこんでいた。彼が本気で自分を憎むはずがないと考えていた。だからこそ、彼にいくら説教されようと、怒鳴《どな》られようと、平気でいられた。  長い関係の末に、彼女はミスリルの真面目《まじめ》さに愛想《あいそう》をつかした。同時にミスリルの忍耐も限界に達し、悪の道に走る彼女を見捨てた。  マローダはせつなさに胸が痛むのを感じ、自分でも驚《おどろ》いていた。とっくにミスリルのことなど忘れ、悪党になりきったつもりでいた——だが、心の片隅《かたすみ》では、彼の思いやりに今でも期待していたのだ。 「さあ、やろうぜ、マローダ。決着をつけよう」  ミスリルの表情は仮面のようだった。黒いダガーをちらつかせて挑発《ちょうはつ》する。 「このダガーにちょっとでも傷つけられない自信があるなら、かかって来い。俺といっしょに死のうじゃないか」  マローダは茫然《ぼうぜん》と首を振《ふ》った。信じられなかった。ミスリルが——あの優しかったミスリルが、本気で自分を殺すつもりだとは……。 「あ、あんた、そんなにあたしを……」 「愛してるさ、今でも」  ミスリルの思いがけない言葉に、マローダは衝撃《しょうげき》を受けた。 「だからこそ、いっしょに死のうって言ってるんだ——ずうっと昔に、ドレックノールの川岸で言った言葉を覚えてないか? 死ぬ時はいっしょだって言ったじゃないか」 「…………!」 「さあ来いよ。来ないのか? だったらこっちから行くぜ!」  マローダは悲しみのあまり絶叫《ぜっきょう》したくなるのをこらえた。彼女に残された道はひとつしかなかった。彼女は再び「暗黒《ダークネス》」の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。店内に闇《やみ》が降りる。逃げられまいと、ミスリルはとっさに後ずさりして、背後の扉《とびら》にへばりついた。  もちろん、こんなことで精霊使《せいれいつか》いの鋭敏《えいびん》な感覚をごまかせるとは、マローダは思っていなかった。ただ、次の呪文を唱えるために、わずかな隙《すき》が必要だったのだ。  まったくの闇の中で、ミスリルはばさばさという羽音を耳にした。コウモリだ、とすぐにピンときた。精神を集中すると、暗闇《くらやみ》をも見通すことのできる精霊使いの眼が、熱を帯びた小さな生物が店の奥に飛んでゆくのを捉《とら》えた。コウモリは闇の中でも飛べる神秘《しんぴ》的な力を持っているのだ。  コウモリの羽音はじきに小さくなり、聞こえなくなった。明かり取りの窓から飛び出したに違いない。最後に残したキーッという鳴き声は、まるでマローダの悲しみの絶叫のように聞こえた。  ミスリルは、ふうっとため息をついた。デインと違って、演技はあまり得意な方ではない。こんなに緊張《きんちょう》を強《し》いられたのは初めてだった。 「おい! おい!」闇《やみ》の中でヴェインが叫んだ。「行っちまったんだろ? だったらダガーをしまってくれよ! 振《ふ》り回して、間違《まちが》って怪我《けが》したらどうすんだ!」 「ダガー? ああ、心配ない。これはただの煤《すす》だから」  そう言ってミスリルは、ここに来る前にダガーに塗《ぬ》りつけておいた煤をぬぐい取り、手探《てさぐ》りで腰《こし》に戻《もど》した。  これが彼の望んだ結末だった——はったりでマローダを威嚇《いかく》し、この街から逃げ去らせるというのが。  他にも二つの結末が考えられた。ひとつはマローダが改心するというもの。もうひとつはマローダが自暴自棄《じぼうじき》になって死を覚悟《かくご》で攻撃《こうげき》してくるというもの。後者の場合、もちろんミスリルは殺されていた可能性がある。だが、マローダの性格からして、どちらもありえないと彼は確信していた。  もっと早くこうするべきだったんだ、とミスリルは思った。彼はいつでもマローダの精神《せいしん》的な保護者だった。彼自身、心に多くの傷を受けて育ったので、彼女を傷つけるものから守ってやりたいと思っていた。だが、その押しつけがましい優しさは、彼女の反発を招き、かえって悪の道へ転落《てんらく》するきっかけになってしまった——  今度の一件が彼女の深い傷になってくれればいいと、ミスリルは望んでいた。彼女を悪の道から引き返させることは、もう不可能だろう。しかし、これからも悪事を重ねるごとに、黒いダガーをちらつかせたかつての恋人の姿が脳裏《のうり》に去来するなら、いくらかは転落の歯止めになってくれるかもしれない。それが彼女にしてやれる最後の愛だった。 「俺《おれ》も甘いよな、まったく……」  ミスリルはつぶやいた。二度とマローダと顔を合わせたくなかった。もしこの次、彼女が何らかの形で自分の前に立ちふさがったなら、今度こそ本当に彼女を殺さなくてはならないだろう。 「あちち!」  ヴェインが叫んだ。闇《やみ》の中で、まだ燃えているランタンをつかんでしまったらしい。 「おーい! この闇をどうにかしてくれよ。これじゃ商売にならん」 「心配いらんさ。半日もすれば魔法《まほう》は切れる」 「半日だって!? そいつは殺生《せっしょう》だぜ、おい!」  ヴェインの抗議《こうぎ》の声を無視して、ミスリルは「深海の罠《わな》」を後にした。 [#改ページ]    8 男同士の約束 「よお、ミスリル」  下町の路地を歩いてきたミスリルは、とある仕立て屋の前で、デインとレグに再会した。レグはデインに上着をかけてもらっている。虎《とら》に服をずたずたにされ、おまけに血まみれだったからだ。それでも彼女がいちおう無事《ぶじ》であるのを見て、ミスリルは内心ほっとしていた。 「マローダはどうした?」  ミスリルは無言で肩をすくめた。「そうか……」とデインはうなずく。詳《くわ》しい事情を知りたいという好奇心《こうきしん》はあったものの、二人の関係は深く追及《ついきゅう》するべきではないと感じていた。相手の心に立ち入りすぎないようにするのも、また友情というものだ。 「こっちも、もう一人の精霊使《せいれいつか》いには、完全に逃げられた」 「やっつけたのはザコだけか……」 「そう言ったら身も蓋《ふた》もない。ひとまず、サーラは無事だったことだし、任務は成功ということにしとこう」 「サーラはどうした?」 「ここ!」  仕立屋から勢いよく飛び出してきたサーラが、ミスリルに抱きついた。  再会を喜ぶ反面、ミスリルは困惑《こんわく》していた。サーラは煤《すす》や埃《ほこり》にまみれており、抱きつかれた拍子《ひょうし》に、ズボンがひどく汚《よご》れてしまったのだ——まあ、黒いズボンだから、あまり目立ちはしないが。 「おいおい、まず風呂に行った方がいいんじゃないか?」 「そうなのよ」  仕立屋から出てきたフェニックスが、買ったばかりの子供用の服一式を、とまどっているミスリルの腕《うで》に押しつけた。 「というわけで、サーラをお願いね」 「?? 何が『というわけ』なんだ?」 「私たちは歓迎パーティの準備があるもの。いろいろ買い物しなくちゃ。ね?」  フェニックスは意味ありげにレグに視線を送った。 「あ、ああ」レグはなぜか決まり悪そうにうなずく。 「僕は事件のてんまつを衛視《えいし》に報告《ほうこく》しに行かなくちゃいけない」とデイン。「いくら廃棄《はいき》地区とは言っても、街の中に死体が二つ転《ころ》がってるのは、まずいからな。ついでに事件の背景も知っておきたいし……」 「子供さらいの一味だったんだろ?」レグが口をはさんだ。「確か賞金がかかってたんじゃないか?」 「無理《むり》無理」デインは苦笑した。「誘拐《ゆうかい》された子供を取り返した者に、親から賞金が出ることになってたんだ。どっちみちたいした額じゃないし、例の他所者《よそもの》の六人組に持って行かれるだけだ」 「……というわけで」フェニックスは繰り返した。「暇なのはあなただけなのよ、ミスリル。サーラをお風呂につれて行って、服を着替えさせてあげて」 「やれやれ……」 「魔法《まほう》で体もきれいになればいいのにね」  そう言ってサーラは笑った。死ぬか生きるかの恐ろしい体験のすぐ後だというのに、少年が冗談《じょうだん》を言える余裕《よゆう》があることに、デインたちはほっとした。  ザーンの浴場《よくじょう》は街の最下層、地表よりかなり下にある。二世紀前、乏しくなったオパールの鉱脈《こうみゃく》を求めて、地下へ地下へ掘り進んで行った鉱夫たちが、蒸気の噴出《ふんしゅつ》する層に突き当たったのだ。激《はげ》しい熱気のために、それ以上深く掘るのは不可能だった。彼らは採鉱《さいこう》を断念したが、せっかく掘り当てたものを無駄《むだ》にしたくないというので、その区域を横に掘り広げてサウナ風呂にすることにしたのだ。  以来二百年、市の管理するこの公衆浴場は、ザーン市民の憩《いこ》いの場であり、隠《かく》れた社交場としても親しまれていた。たちこめる湯気に隠れ、蒸気の噴出する音にまざれて、密談が交わされることもしばしばある。  ちなみに料金は安い。入口で管理人に衣服を預ける時に、わずかな預け賃を払うだけでいいのだ。 「うわー、広い!」  サーラの声が大きく反響《はんきょう》した。浴場は半円形をしており、中央部ほど深くなる階段状の構造になっている。ちょうど劇場かスタジアムのようだ。半円の中心、つまりいちばん深い部分からは、勢いよく蒸気が噴出している。劇場なら舞台《ぶたい》があるべき場所には、のっぺりした岩壁《がんぺき》がそそり立っており、その向こうに女性用の浴場があるらしい。照明には魔法《まほう》が使われていた。  湯気でかすんでよく見えないが、階段のあちこちに、何人もの人がくつろいでいるようだ。もっとも、まだ昼間なので、それほど客は多くないが。 「ほらあれだ」  ミスリルが指さした。階段の途中《とちゅう》に四角い柱が建っている。それだけが岩ではなく、煉瓦《れんが》を組んで作ったものだった。その壁面《へきめん》に水瓶《みすがめ》を持った女性のレリーフが取り付けられており、水瓶の口から水がちょろちょろと流れ落ちでいた。  その下に駆《か》け寄ったサーラは、水が予想に反して冷たかったので、小さな悲鳴《ひめい》をあげた。だが、すぐに慣《な》れてしまって、髪《かみ》をばしゃばしゃ洗いはじめた。真っ黒な煤《すす》が流れ落ち、さらさらした金髪《きんぱつ》が艶《つや》やかさを取り戻す。  水がどこから来るのか不思議《ふしぎ》に思って、サーラは柱を見上げた。柱の上には、蜘蛛《くも》の巣《す》を思わせる奇妙《きみょう》な構造物が広がっていた。木でできた雨樋《あまどい》を放射状に組み合わせたようなもので、それが天井《てんじょう》いっぱいに張りめぐらされているのだ。 「よくできてるだろ」ミスリルが自分のことのように自慢《じまん》した。「これだけは十年ちょっと前にできた新しい仕掛けなんだ。天井についた湯気が冷えて、水滴になって落ちてくるのを、受け止めて集めるようになってる。何ひとつ無駄《むだ》にしてないわけさ」 「頭のいい人がいるんだね」サーラは感心した。 「まあな——世の中を動かしてるのは、王様や英雄や学者ばかりじゃない。職人とか、技師とか、労働者とか……そういう名もない連中《れんちゅう》の努力の積み重ねってものもあるんだ」 「うん、それ、分かるよ」  汚《よご》れが落ちてさっぱりしたので、サーラはミスリルと並んで、階段に腰掛《こしか》けた。二世紀も使われ続けてきた石の腰掛けは、すっかり摩滅《まめつ》して角が丸くなり、表面もすべすべしていて、座り心地が良かった。  二人が腰掛けたとたん、入れ替《か》わるように、少し離れたところに座っていた中年の男がのっそりと立ち上がった。二人の背後を通って出口に向かう。何気なく振《ふ》り返ったサーラは、ショックを受けた。そいつは通り過ぎながら、ミスリルの背中を横目でにらみつけていた——強烈な憎悪《ぞうお》と軽蔑《けいべつ》のこもった視線だ。  サーラはそっと肘《ひじ》でつついた。「ねえ、ミスリル……」 「ほっとけ」ミスリルは振《ふ》り向こうともしない。 「だって、あいつ……」 「あいつだけじゃない。いつものことさ。この黒い肌《はだ》が珍しがられるのはな。だから、なるべくトラブルを起こさないように、こういう人の少ない時間帯を選んで来るようにしてるんだ」 「…………」 「風呂にかぎったわけじゃない。酒場でもどこでも、俺《おれ》が入っていくと入れ替わりに席を立つ奴《やつ》や、近づくと身をそらす奴が必ずいる。いちいち気にしちゃいられない」  重たい話題をさらりと話すミスリルの口調《くちょう》は、まるで自分の境遇《きょうぐう》を楽しんででもいるかのようだった。サーラは言葉が詰《つ》まった。一生、他人から憎まれ、蔑《さげす》まれて生き続けるというのは、どういう気分なのだろう? 自分は女みたいな名前で仲間から馬鹿《ばか》にされたけど、そんなのはミスリルの境遇とは比べものにならない。  サーラには希望があった。いつかたくましい英雄になって、馬鹿にした連中を見返してやるという野心だ。ただの子供の夢だ、現実|逃避《とうひ》だと嘲笑《あざわら》う者がいるかもしれない。でも、サーラは真剣だった。  だが、ミスリルには現実逃避すら許されない——自分の肌《はだ》の色、ダークエルフとの混血《こんけつ》という境遇からは、決して逃げることはできないのだ。 「大変なんだね……」  何か言わなければと思い、そう言ってみたものの、自分でもしらじらしく聞こえた。 「まあな」ミスリルは肩をすくめた。「初めてデインに誘《さそ》われてここに来た時は、トラブルもあったよ。管理人に入場を断わられかけた。でも、デインが例の口調《くちょう》で熱心に説得してくれたんで、とうとう管理人も折れて、入れてくれたよ。何しろデインはこの街の名士のぼっちゃんだからな。面と向かって逆《さか》らう奴はあまりいない」 「そうなの?」 「そうとも。あいつから聞かなかったか?」  サーラはかぶりを振った。「ううん」 「そうか。ま、そういうのを自慢《じまん》したがらないのが、あいつのいいとこなんだが……」 「お金持ちなの?」 「親父はこれ街のチャ=ザ神殿《しんでん》の司祭長《しさいちょう》でな、いずれは奴が跡を継《つ》がなきゃならんらしい。もちろん家には金もたんまりある。今は修行《しゅぎょう》中で、見聞を広めるためと称して、俺《おれ》たちと遊び歩いてるわけだ」ミスリルは白い歯をむきだして笑った。「俺とは身分違いもいいとこさ」 「お父さんがよく許してるなあ……」 「体を張って金を稼《かせ》いで、金のありがたみを知るのも、修行の一環《いっかん》なんだそうだ……本当かどうか知らんけど」 「ふーん……」 「いい奴だよ。風呂の一件に限らず、あいつにはいろいろ恩がある——もっとも、あいつに寄りかかって生きたくはない。受けた分の恩は返さないとな。そうだろ?」 「うん……」  二人の会話がしばし途切《とぎ》れた。サーラはちょっと迷ってから、思い切って言った。 「……ねえ、ひとつだけ訊いていい?」 「何だ?」 「マローダのこと……」  ミスリルは急にそっぽを向いた。まずい質問をしたので怒らせてしまったのかと、サーラは不安になったが、違ったようだ。ミスリルは顔をそむけたまま喋《しゃべ》りはじめた。 「あいつは……元から悪い奴じゃなかった」 「うん。僕も最初に会った時、悪い人じゃないように見えたよ」 「あいつは俺と似たような境遇《きょうぐう》だった。蔑《さげす》まれて、嫌われて生きてきた。だから俺たちは引かれ合った。互いに傷をなめ合ってたんだな……」 「それがどうして……?」 「力さ。この世の中にはな、目に見えない力ってもんがあるんだ」 「魔法《まほう》?」 「そうじゃない。魔法よりもっと大きな力だ。人を鋳型にはめてしまう力[#「人を鋳型にはめてしまう力」に傍点]だ」 「…………?」 「たとえばだ、あそこに——」と頭上を指さし「——住んでる王子様はどうだ? もちろん王子の生活なんて俺は知らないが、王子だって子供の頃は、膝《ひざ》をすりむいて泣いたり、おねしょしたりしてるはずだ。そうだろ?」  サーラはくすくす笑った。 「うん、そうだね」 「中身は下町の悪ガキと変わらないのに、ただ王様の子供として生まれたというだけで、回りから『さすがに気品がある』『堂々としている』と言われる。お城に閉じこめられ、王子としての鋳型《いがた》にはめられて、無理《むり》に王子らしくさせられてしまうわけだ——考えてみりゃ、かわいそうな話さ。きっと遊びたいだろうにな。  俺《おれ》なんかはその逆だ。世間の連中《れんちゅう》は、俺の肌《はだ》の色だけを見て、あいつは悪人に違いないと思いこむ。そして、自分たちの作った鋳型の中に俺をはめこもうとする。俺がいつ悪いことをするかと待ち構えてるんだ。  だが、そうはいかない。俺は自分に誇りを持っていた。だから、どんなひどい境遇《きょうぐう》だろうと、絶対に負けるもんかと思っていた。もし本当に悪の道に走ったら、それこそ連中の思った通りになっちまう。それが嫌《いや》だった。俺は他人が思ってるような自分[#「他人が思ってるような自分」に傍点]になりたくなかった——分かるか?」  サーラは、はっと思い当たった。唐突《とうとつ》にミスリルの言わんとしていることが理解できたのだ。  小さい頃から、女のような名前、女のような髪《かみ》で、「女みたいな奴」と馬鹿《ばか》にされ続けてきた。冒険者《ぼうけんしゃ》になってみんなを見返してやりたいと思ったのも、自分が「女みたいな奴」ではないことを証明したかったからだ。 「だが、マローダは俺ほど強くなかった。鋳型《いがた》にはめようとする力に勝てなかったんだ。だから結局、世間が思っているようなマローダになっちまった。恐ろしい女、悪い女にな。俺はあいつを支えてやりたかったが、支えきれなかった……」  ミスリルは急に振《ふ》り返り、いつになく真剣な表情で、サーラの顔をのぞきこんだ。 「お前は負けるなよ、サーラ」 「え? うん、もちろん負けないさ」 「それならいいが……もし、失敗しても故郷に帰ればいいなんて思っているなら、そんな甘い考えは捨てろよ。冒険者《ぼうけんしゃ》が失敗するのは、死ぬ時だ」 「…………」 「そこでだ!」  ミスリルは一転《いってん》して明るい声を出した。 「お前、この前みたいに足手まといになりたくないだろ?」 「もちろん!」 「実はお前が来るまでの間、俺たちは話し合ってたんだ。お前をつれて歩くのは、四人とも異存《いぞん》はない。ただ、足手まといになられるのは困る——最悪なのは、しくじって死なれることだな。言ってみれば、俺たちがお前をそそのかしたみたいなもんだから、そんなことになったら寝覚めが悪い」 「それはそうだけど……」 「だから、最初の冒険《ぼうけん》に出る前に、少し修行《しゅぎょう》をしてみないか?」 「修行って、どこで?」 「盗賊《とうぞく》ギルドさ」 「盗賊……!」サーラは絶句《ぜっく》した。  ミスリルは笑いながら手をひらひらさせ、サーラの不安を払った。 「心配ないって。ギルドは世間で思われてるような悪のたまり場じゃない。それどころか、盗賊のルールってもんをみっちり教えこまれる。ルールをはずれるような本物の悪党は、はじき出されちまうのさ」 「でも、僕は盗賊になりたいんじゃなくて……」 「分かってる。別に盗賊《とうぞく》ギルドに所属してるから盗賊にならなきゃいけないって規則はない。それどころか、冒険者に役に立つことをいろいろ教えてくれるんだ」 「ミスリルもそこで修行したの?」 「ああ。いろんなことを教わった。鍵《かぎ》の開け方へ忍び歩きのやり方、壁《かべ》の登り方、ロープの使い方、どうやって敵の攻撃《こうげき》をかわしながら急所をつくか……どれひとつ取っても役に立つことばかりだぜ」 「でも……」  サーラはためらっていた。いくらミスリルが保証してくれても、盗版たちに混《ま》じって修行をするというのは、やはり不安がある。 「一か月だ。一か月だけでいい」ミスリルはなおも説得した。「それだけあれば基礎は身につく。その修行が終わったら、本物の冒険につれて行ってやる」 「ほんとに?」 「もちろん。俺がお前を騙《だま》すと思うか?」 「それはそうだけど……」 「敵の攻撃をかわすにしても、戦いのコツを知ってるのと知らないのとでは、えらく違う。前のキマイラの時みたいになりたくないだろ? 基礎さえ知ってれば、あとは経験しだいだ。お前には素質があるから、きっと伸びるはずだ」 「うん……」 「どうだ、一か月だけがんばってみないか? さっきだって、デインやレグの言葉を信じて、跳《と》んだじゃないか。俺を信じて、もういっぺん跳んでみてくれないか?」  しばらく悩んだ末、サーラは不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。 「……分かったよ。信じるよ、ミスリル」 「よーし、それでいい!」  ミスリルはサーラの裸《はだか》の背中をぴしゃりと叩いた。 「俺は絶対にお前を裏切らない! 約束する!」 「男と男の約束だね?」 「もちろんさ!——ああ、それともうひとつ」 「まだ何か?」 「読み書きの勉強もしろよ。いいな?」  サーラは湯気の中で顔を赤らめた。今度の件はそもそも、彼が字を読めないために起こったことだった。 [#改ページ]    9 歓迎パーティ  浴場《よくじょう》を出たサーラは、本物の「月の坂道」亭に案内された。ミスリルたちが歓迎パーティを開いてくれるというのだ。  店の名の由来《ゆらい》は、この街の第二階層から第四階層までを貫《つらぬ》く長い坂道を昇りきったところにあるからだった。店の前の通路には、東に面して、ひときわ大きな明かり取りの窓がある。酒を飲み過ぎて気分が悪くなった時などは、店を出てその窓に寄りかかり、夜風に当たりながら、昇ってくる月でも眺めるのがいいとされていた(もちろん月だけではなく朝日も眺《なが》められるわけだが、この店に出入りする連中は午前中は寝ていることが多いので、太陽より月の方が親しみやすいのだった)。  外観は質素だった。木の扉《とびら》に店の名前を刻《きざ》んだプレートが張りつけてなかったら、倉庫か何かと勘違《かんちが》いしただろう——あるいは本当に倉庫を改造したのかもしれない。  入口は狭《せま》いが、店内はけっこう広く、にぎやかだった。酒場と宿屋を兼ねた店で、冒険者《ぼうけんしゃ》たちを泊めたり、必要な情報《じょうほう》を提供したり、仕事を仲介したりする、いわゆる「冒険者の店」というやつだ。一般の旅人が泊《と》まることはあまりない。  歓迎パーティはまだはじまる気配《けはい》がなかった。風呂でさっぱりしてきたサーラは、フェニックスが買ってくれた新しい服に着替えていた。待っている間、好奇心《こうきしん》いっぱいの目で店内を見回す。  一階のフロアは酒場になっており、中央のU字形をしたカウンターの中で、バーテンがビールを注《つ》ぎながら、客と世間話をしていた。カウンターの奥にはカーテンがあり、その向こうには厨房《ちゅうぼう》があって、使用人が料理を作っているらしい。ぐつぐついう音と、スープのうまそうな匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。  酒場は二階まで吹き抜けになっており、回廊《かいろう》が酒場を見下ろす形で取り巻いていた。回廊に沿って九つの部屋《へや》が並んでおり、カウンターにいるバーテンの位置からでは、どの部屋の扉も見ることができた。  ミスリルたち以外にも数組の冒険者が泊まっているらしい。近くのテーブルでは、鋼《どう》色の髭《ひげ》をたくわえたドワーフ族の戦士が、魔術師《まじゅつし》らしい若い男に冒険談を披露《ひろう》していた。サーラはさっきから耳を傾けていたのだが、旅の途中《とちゅう》の描写がやたらに回りくどくて、なかなか怪物退治《かいぶつたいじ》の場面に行き着く気配《けはい》がない。店の反対側のテーブルには、四人の男女が集まっていて、サイコロを使ったスゴロクのようなゲームに興《きょう》じている。テーブルの表面にゲーム盤が刻んであるのだった。金がかかっているらしく、四人はかなり熱中しており、サイコロを振《ふ》るたびに歓声をあげたり、大げさな身振りで落胆《らくたん》したりしていた。それとは対照的に、カウンターで静かに飲んでいるカップルもいる。よく分からないが、しんみりした話をしているようだ。 「どうだ、感想は?」  隣《となり》の席に座っていたミスリルが言った。 「何だかわくわくする……面白《おもしろ》そうだよ」 「気に入ったみたいだな」ミスリルは微笑《ほほえ》んだ。「ま、これからお前の家になるんだ。気に入ってもらわなくちゃ困るけどな」  サーラはうなずいた。これからミスリルと同じ部屋《へや》に泊《と》まることになると教えられていた。彼はこれまで二人部屋に一人で寝起きしていたので、ちょうどいい同居人ができたわけである。フェニックスとレグは隣の部屋だ。 「やあ、遅くなってすまん」  いつもの笑顔《えがお》で、デインが店に入ってきた。彼だけはこの店に泊まっていない——このザーンに自分の家があるのだから。  彼はミスリルの隣に腰掛《こしか》け、バーテンにビールを注文した。 「いちおう衛視《えいし》にはいきさつを説明しておいたが……」 「それで?」 「例の精霊使《せいれいつか》いは、やっぱり足取りが分からない。しばらくの間、街から出る人間の取り調べはきびしくするそうだが……あまり成果は期待はできないな」 「当然だ。ああいう連中《れんちゅう》は、いざとなればいくらでも抜け道は知ってるだろうしな」 「マローダの行方も分からない——ま、とっくに街は出てるだろうが」 「…………」 「忠告しといたよ。万が一、どこかでマローダに出会っても、無視《むし》してやった方がいいって。レグがあんな目に遭《あ》わされたぐらいだ。あんたらの腕《うで》じゃ、下手《へた》に捕《つか》まえようとしたら、返り討《う》ちに遭《あ》うだけだってな」 「衛視ども、どう言ってた?」  デインは肩をすくめた。「不機嫌《ふきげん》そうだった」 「そりゃそうだろ」ミスリルは吹き出した。「お前、嘘《うそ》がうまいくせに、妙なところで正直になるんだな」 「親切のつもりだよ。忠告し忘れたせいで、関係のない人間が殺されたりしたら、後味が悪い……何にせよ、衛視たちもむきになって追い回したりしないさ。今度の事件じゃ、連中《れんちゅう》はだの下っぱだからな」 「マローダもそう言ってたよ」サーラが口をはさんだ。「取り引き相手のことはぜんぜん知らないって」  デインはうなずいた。 「それが賢《かしこ》いやりくちだろうな。どうも今度の件は、ただの金目当ての人さらいじゃなく、かなり大きな裏があるがたいだ」 「大きな裏って?」 「ああ。海辺の屋敷《やしき》で捕《つか》まったリーバーという男だが、何でもドレックノールから来た魔術師《まじゅつし》だったらしい。で、その黒幕《くろまく》で、まだ捕まっていないヴェラーズって男も、ドレックノールの盗賊《とうぞく》ギルドの幹部《かんぶ》らしいんだ」  ミスリルは驚《おどろ》いた。「じゃあ、背後にドレックノールが?」 「いや、そんな単純なもんじゃないんだ。僕が訊《き》きこんできたところでは、ヴェラーズって男は、いろんな名前で、いろんな顔を持っているらしい。海賊《かいぞく》がドレックノールに送りこんだスパイじゃないかって話もある」 「何でそんな連中《れんちゅう》が子供をさらうんだ?」 「分からん。例のベルダインから来た冒険者《ぼうけんしゃ》たちにも当たってみたんだが、あまり詳《くわ》しいことは話してくれなかった。僕らにはうかがい知れない事情があるみたいだ」 「ふむ」ミスリルはひょいと肩をすくめた。「そういうのはあまり詮索《せんさく》すべきじゃないんだろうな、たぶん」 「そういうこと。何となくしっくりしないが、今度の件はこれまでにしておこう……レグたちは?」 「二階だよ。じきに降りてくる」  その言葉が合図であったかのように、二階の一室の扉《とびら》が開いた。振《ふ》り仰いだサーラは、あっと息を飲んだ。  二人とも着飾《きかざ》っていた。フェニックスは赤い髪《かみ》に映える純白のドレスで、スカートが鐘《かね》のようにふわりと広がっている。まるで舞踏会《ぶとうかい》に出かけるようだったが、いつもの魔法《まほう》の杖は手放していない。レグは体にぴったり合った赤いドレスを着て、短い銀髪《ぎんぱつ》に髪飾《かみかざ》りをつけており、鎧《よろい》を着た姿からは想像《そうぞう》できない艶《つや》っぽさだった。どことなく不安そうに見えるのは、武器を身につけていないからだろうか。  階段をしずしずと降りてくる二人を見て、店内にいる男たちが、ひゅーひゅーといっせいにはやし立てた。 「フェニックス、かわいい!」 「レグ、今度つき合えよ!」  フェニックスは無言で微笑《ほほえ》んでいるが、レグは露骨《ろこつ》に不機嫌《ふきげん》そうな顔をしていた。男たちの好奇の視線と、女たちの嫉妬《しっと》の視線を浴《あ》びながら、彼らの間をすり抜け、サーラたちの席に近づいてくる。ミスリルはにやにや笑っているだけだったが、デインは妙にどぎまぎしている様子だった。 「どうしたの、その格好《かっこう》?」サーラは目を丸くしていた。 「もちろん歓迎の準備よ」フェニックスはウインクした。「私たちだって女だもの、こういう格好もしなくちゃね」 「あたしは嫌《いや》だって言ったんだ!」レグはぼやいた。「まったく、あたしがたま〜にこんな服着ると、みんなで馬鹿《ばか》にしやがって……」 「あら、でも注目を浴びるのって、けっこう嬉《うれ》しいもんじゃない?」 「う、嬉しくなんかないよ!」  レグは慌《あわ》てて打ち消した。肌《はだ》の色が濃《こ》いのでよく分からないが、顔を赤らめているのではないかと、サーラは想像《そうぞう》した。  デインがわざとらしくせき払いした。「あー、僕は似合うと思うがな……」 「よしてよ。何か裸《はだか》になったような気分だ……」 「どうして?」ミスリルがからかう。「普段《ふだん》は下着で平気で歩き回ってるのに?」 「うるせえ! それより早くパーティはじめろよ。早くはじめて、早く終わらそうぜ」 「そうだな」  デインが立ち上がった。両腕を広げ、店内の人間の注目を集める。 「みんな聞いてくれ。彼が今日から僕たちの仲間になるサーラだ」  拍手《はくしゅ》が起きた。 「ほら、立って立って」フェニックスがサーラの背中をつつく。サーラはぴょこんと立ち上がり、緊張《きんちょう》して「よ、よ、よろしく」と言った。 「なりたてのほやほやの冒険者《ぼうけんしゃ》で、まだ何もできないが、熱意だけはある。失敗もあるかもしれんが、いろいろ教えてやってくれ。頼《たの》む」  また拍手が起きた。「まかせとけって!」と誰かが怒鳴《どな》る。 「ただし——」ミスリルが声を張り上げた。「悪いことは教えるんじゃねえぞ。『ドーム』で金を巻き上げようとしたり、『真夜中の太陽』につれて行ったりしたら、俺《おれ》が承知しねえからな!」  笑いが巻き起こる。何かの冗談《じょうだん》だったらしいが、サーラには分からなかった。 「……というわけで」デインはにこにこ笑い、ぽんっと手を叩《たた》いた。「あいさつの意味をこめて、今夜の酒は僕たちのおごりだ。じゃんじゃん飲んでくれ」  うおーっという歓声が店内に響《ひび》き渡った。さっそく何人かがカウンターに駆《か》け寄り、ビールを注文する。  フェニックスはカウンターに寄りかかり、愛用の杖を肩で支えた。杖の中は空洞《くうどう》の共鳴管になっている。杖の端は湾曲《わんきょく》しており、そこに弦《げん》が張られていて、たて琴《ごと》として使えるのだった。  彼女の細い指が弦の上で踊ると、軽快な旋律《せんりつ》が流れ出した。しばらく前奏《ぜんそう》の短いハミングが続いた後、唇《くちびる》が開き、曲に合わせて、希望にあふれた詩を紡《つむ》ぎ出した。 [#ここから2字下げ] 昨日の私は 風に震《ふる》えていた 明日の私は 闇《やみ》に迷うだろう でも今日だけは 寂《さび》しくはない 暖かい炎と 仲間がいる 昨日の憂《うれ》いは まるで夢のよう 明日の不安は まだ影のよう 信じているわ 忘れないわ この熱い幸せは 幻《まぼろし》じゃない…… [#ここで字下げ終わり]  大騒《おおさわ》ぎの中で、店の中にいた冒険者《ぼうけんしゃ》たちが入れ替《か》わり立ち替わりやって来ては、サーラに自己|紹介《しょうかい》した。数が多すぎて、いっぺんには覚えきれない。戦士もいれば魔法使《まほうつか》いもいる。男だけではなく女も何人かいるし、人間以外にエルフやドワーフもいる。背の高い者や低い者、乱暴《らんぼう》そうな者や礼儀《れいぎ》正しい者、あきれかえるほど陽気でお喋《しゃべ》りな者がいるかと思えば、むっつりと陰気《いんき》そうな者もいる……。  彼らの共通点は、誰一人として、サーラを馬鹿《ばか》にしたりはしないということだった。一人前とは言えないものの、子供|扱《あつか》いされないことが、サーラには嬉《うれ》しかった。 「やあ、盛り上がってるなあ!」  大声でそう言いながら、大股で店に入って来たのは、オーガーのようにがっしりした体格の中年男だった。全身から店内の大騒ぎに負けないくらいの陽気さを発散している。店の中にいた何人かが「やあ」と笑顔《えがお》で会釈《えしゃく》を返す。どうやら有名人のようだ。  男の背後に、自分と同じぐらいの少年がつき従っているのに、サーラは気づいた。男とは対照的に、こんな場所が苦手らしく、おどおどした様子で入ってくる。その服は黒一色で、まるで男の影のようだった。 「やあ、この子か! うちで修行《しゅぎょう》したいって言うのは!」  男はずんずんと近づいてくると、びっくりしているサーラの前に立ち止まり、大きな手で肩をぽんと叩《たた》いた。親愛の情をこめた気軽な動作だったのだが、サーラはよろけて椅子《いす》から落ちかけた。 「ええ、そうです」とミスリル。「サーラ、この人がアルド・シータさん。明日からお前を鍛《きた》えてくださる人だ」 「あ……よろしく」サーラは慌《あわ》てて頭を下げた。 「アルドでいい!」男は吠《ほ》えた。大きな声は地声らしい。「ギルドの教育係だ。子供だと思って甘やかさないからな、覚悟《かくご》するんだぞ!」  サーラは震《ふる》え上がった。悪い人でなさそうなのは、ひと目見て分かったが、すぐそばに立たれて大きな声を出されると、猛獣《もうじゅう》に吠えられた小動物のように、反射的に畏縮《いしゅく》してしまう。  男は振り向いてミスリルを見た。「お前の見たところ、素質はあるのか?」 「ええ。人さらいのところから、縛《しば》られた縄《なわ》をほどいて、崖《がけ》を伝って逃げ出したんです。誰の助けも借りずに」 「うむ、それはもう聞いた。まったくたいしたもんだ! もう盗賊《とうぞく》の初歩の技術は心得てるわけだな。これは確かに教えがいがありそうな生徒だ!」  サーラはあまり誉められている気がしなかった。 「まあ、そんなに固くならんでもいい。うちのギルドには、お前さんの年頃の子供も何人かいるからな。じきに慣《な》れるさ」 「はい……」 「おお、そうだ紹介《しょうかい》しとこう。ここにいるのが、俺《おれ》の娘のデルだ——ほら、デル、あいさつしろ」  そう言ってアルドは、自分の後ろにいた子供の腕を捕《つか》まえ、ぐいと前に突き出した。  サーラはようやくその少年——いや、少女のことを思い出した。崖《がけ》を逃げる途中《とちゅう》、助けを求めた子供だ。  少年と間違《まちが》えたのも無理《むり》はない。言われなければ、誰も女の子だとは気がつかないだろう。黒い髪《かみ》は手入れしてないらしくぼさぼさで、顔はニキビだらけ。体格もまだ女らしくなく、おまけに身に着けているのは、体にぴったり合った黒いソフト・レザーのシャツとズボンだ——保守的な気風の村で育ち、女の子は必ずスカートをはくものだと思っていたので、サーラはちょっと驚《おどろ》いた。  だが、本当にサーラをとまどわせたのは、その子の表情が読めないことだった。無表情なのではない。悲しいのか、おびえているのか、それとも何かを訴えたいのか、ちょっと理解できない不思議な表情を浮かべており、追い詰《つ》められたウサギのようなおどおどした視線で、サーラをじっと見つめている。 「あ……えーと……ありがとう」サーラはようやくそう言った。「君がミスリルたちに知らせてくれたんだ……よね?」  少女はこっくりとうなずいた。 「僕、サーラって言うんだ。変な名前だけど……」 「…………」 「デル……だよね?」 「ええ」と少女は言った。喋《しゃべ》れないわけではないらしい。 「あの……よろしく」  サーラほおそるおそる手を差し出した。しかし少女は、まるで毒《どく》でもついているかのように、触《さわ》ろうとしない。サーラは宙《ちゅう》に手を浮かせたまま、気まずくなった。 「すまんなあ、口下手《くちべた》な奴で!」  とアルドは笑った。こういうのを「口下手」と言って済《す》ませていいのだろうか、とサーラは疑問に感じた。 「やあ、アルド」そう言って近づいてきたのはレグだった。 「おや、レグだったのか!」アルドは陽気な好色さをあらわにした。「珍しい格好《かっこう》してるんで見違えたよ!」  レグはおおげさに顔をしかめた。「誉めてんだか、けなしてんだか、どっちだよ?」 「もちろん誉めてるのさ! いつもの凛々《りり》しい格好もいいが、たまには女らしい格好も気分が変わる——デルにも言ったんだ。パーティなんだから、もっと晴れやかな格好しろってな。だが、聞かなくてなあ……」  デルは顔を真っ赤にした。「帰る……」とつぶやくと、店の外に飛び出してゆく。 「やれやれ、扱《あつか》いにくい子だ!」アルドは嘆息《たんそく》した。「女らしさなんてもんに、とんと興味を示さなくてなあ。ま、あと何年かすれば、色気づいてくるとは思うんだが……」  こういうのを「親馬鹿《おやばか》」と言うんだな、とサーラは思った。娘を愛するあまり、娘が変であることに気がついてないらしい。  変な女の子——それがサーラの第一印象だった。だが、不快感や嫌悪感《けんおかん》は感じなかった。それどころか、店から走り出て行ったデルの行方が、妙に気になるのだ……。 「ほれ、サーラ! お前の分だぞ!」  振《ふ》り返ると、サーラの目の前に、ビールのなみなみと入ったジョッキがどすんと置かれた。サーラは「うわっ!?」と悲鳴《ひめい》をあげた。 「やめてよ! ビールはもういやだよ!」  一同はどっと笑った。彼がさらわれたいきさつを、もう聞かされていたからだ。 「おいおい。俺《おれ》たちは人さらいじゃないぜ」とミスリル。「安心して飲めよ」 「やだ! 絶対にやだ!」  サーラは頑固《がんこ》に拒絶《きょぜつ》した。金輪際《こんりんざい》、酒なんか飲むまいと心に決めていた——酔《よ》い潰《つぶ》れるのがこわいからではなく、酔うと自分が何をするか分からないからだ。マローダに「酒癖《さけぐせ》が悪い」と言われたのが気になっていた。  幸い、誰もそれ以上は強引《ごういん》に酒を勧《すす》めようとはしなかった。夜が更《ふ》けるにつれて、周囲《しゅうい》はどんどん盛り上がっていった。まるで村祭りの夜のようだ。サーラはもっぱら山羊《やぎ》のミルクを飲んだが、酒の力など借りなくても、充分《じゅうぶん》に高揚感を味わうことはできた。こんなに素敵な夜は初めてだった。  フェニックスの歌は続いている。 [#ここから2字下げ] 昨日もない 明日もない ただ今夜 今だけは 喜びを歌おう 悲しみもない 恐れもない ただ夢と酒と歌に 酔《よ》いしれよう 昨日の憂《うれ》いは まるで夢のよう 明日の不安は まだ影のよう 信じているわ 忘れないわ この熱い幸せは 幻《まぼろし》じゃない…… [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    あとがき [#地付き]山本 弘  一九九二年七月二五日、唐沢俊一さん(漫画家の唐沢なをきさんのお兄さんで、漫画原作者として有名)のご好意で、新宿の劇場で行われた仮面ライダーのイベントの楽屋裏を拝見《はいけん》する機会に恵まれました。  小林昭二さん、宮内洋さん、潮健児さん……ブラウン管でしかお目にかかったことのないスーパーヒーローやスーパーヴィランの方々と、数十センチの距離まで接近できたのです。緊張のあまり、ほとんど何も喋《しゃべ》れませんでしたが、実に感動的な体験でした(どうだ、友野、うらやましいだろう!? うわはははははははは)。  テレビで見てると楽そうだけど、裏の苦労は大変なものです。特にすごいと思ったのが、何十年も東映の悪役一筋の潮健児さん。地獄大使のコスチュームで舞台に登場し、熱狂的ファンの「イーッ!」という声援《せいえん》(?)を浴《あ》びながら、大ノリにノった怪演を見せていましたが、楽屋に戻ってコスチュームを脱ぐと、もう汗びっしょり! 体力と根性がないとできないお仕事なんだと実感しました。  ライダーや地獄大使だけではなく、名もない戦闘員の方々の苦労も、並大抵《なみたいてい》のものではないそうです。運動神経もなく、熱さに弱い僕には、とても想像できません。おまけに、ハードな練習をこなし、どんなに見事なアクションを見せても、マスクをかぶっているのでは、決して有名にはなれないのです。  それなのに、みんな実に嬉しそうに、それぞれの役を演じておられます。  様々な苦労を乗り越え、ヒーローや悪役を演じる俳優さんたち。危険なアクションをこなすスタントマンの方々。そして、それに声援を送るファンたち(僕もその一人なんだけど)……その熱気は「すごい」としか形容できないものです。  そこには�文学性�も�芸術性�もありはしません。ストーリーは行き当たりばったりだし、科学考証もデタラメ。奇怪なコスチュームを着けた人たちによる、派手な格闘シーンの連続は、�良識ある�人の眉《まゆ》をひそめさせるでしょう。  でも、そこには�文学性�や�芸術性�を超越した魅力《みりょく》があるのです。ファンを熱狂的に引きつける、ある種の美学があるのです。  その魅力の本質が何なのか、僕には分析《ぶんせき》できませんし、分析しようとも思いません。そもそも、�評論�だの�分析�だのをやろうとしたとたん、それはかんじんの本質を見失い、分解してしまう気がします。  その点、ハロルド・シェクターの『体内の蛇』(リブロポート)という本は、いわゆる芸術的な評論を拒否し、多くの人が熱中するB級大衆文化を、現代のフォークロア(民話)として捉《とら》えていて、好感が持てます(B級ホラーのファンの方、ご一読を)。  そう、仮面ライダーやウルトラマンは、すでに現代の民話になっているのかもしれません。テレビや映画のような新しい媒体《ばいたい》が普及《ふきゅう》しても、人間の本質は、狩《か》りの後で焚火《たきび》を取り囲み、語り部の語る英雄伝説に一喜一憂《いつきいちゆう》していた頃から、まったく変わっていないような気がします(あー、今回は軽く流すつもりだったのに、何となく高尚《こうしょう》っぽい話題になってしまった。自己嫌悪……)。 『ソード・ワールド』における「冒険者」という職業は、もちろん架空のものです。読者のみなさんの中には、いくらファンタジー世界でも、本当にこんな職業が成り立つのかと、疑問に思われる方がおられるかもしれません。  確かに、冒険者の生活は、つらいことや危険なことの連続です。社会的地位は低いものですし、世間の偏見も強いでしょう。おそらく、大半の人は冒険者になりたいなどとは思わず、平穏でありきたりの一生を選ぶはずです。  でも、仮面ライダーにあこがれてスタントマンを目指す若い人たちが後を絶たないように、アレクラスト大陸にも、冒険者という危険な職業にあこがれるサーラのような少年少女が、少なからずいるに違いありません。  冒険者を目指すサーラの冒険は、今回でようやく二回目。ヒーローへの道は限りなく遠いように思えますが、しかたのないことでしょう。変身ポーズひとつでヒーローになれるほど、この世界は甘くないのです。失敗や挫折を乗り越え、夢に向かって一歩ずつ努力を続けるしかありません。  どうか長い目でサーラの成長を見守ってやってください。 [#改ページ]    キャラクター・データ サーラ・パル(人間、男、11歳) 器用度《きようど》13(+2) 敏捷《びんしょう》度12(+2) 知力11(+1) 筋力《きんりょく》8(+1) 生命力11(+1) 精神《せいしん》力10(+1) 冒険者《ぼうけんしゃ》技能《ぎのう》 シーフ1 冒険者レベル 1 生命力|抵抗《ていこう》力2 精神力抵抗力2  武器:ダガー(必要筋力4)  攻撃《こうげき》力3 打撃《だげき》力4 追加ダメージ2   盾《たて》:なし          回避《かいひ》力3   鎧《よろい》:クロース(必要筋力1) 防御《ぼうぎょ》力1      ダメージ減少1  言語:(会話)西方語     (読解) デイン・ザニミチュア(人間、男、26歳) 器用度15(+2) 敏捷度17(+2) 知力17(+2) 筋力12(+2) 生命力13(+2) 精神力19(+3) 冒険者技能 ファイター3、プリースト3(チャ=ザ)、セージ4 冒険者レベル 4 生命力抵抗力6 精神力抵抗力7  武器:レイピア(必要筋力12)   攻撃力5 打撃力12 追加ダメージ5   盾:バックラー(必要筋力1)  回避力6   鎧:ハード・レザー(必要筋力12)防御力12      ダメージ減少4  魔法《まほう》:神聖《しんせい》魔法(チャ=ザ)3レベル 魔力5  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、エルフ語、ゴブリン語     (読解)共通語、西方語、下位古代語 フェニックス(ハーフエルフ、女、?歳) 器用度18(+3) 敏捷度20(+3) 知力20(+3) 筋力12(+2) 生命力13(+2) 精神力15(+2) 冒険者技能 ソーサラー4、バード1、セージ2 冒険者レベル 4 生命力抵抗力6 精神力抵抗力6  武器:メイジ・スタッフ(必要筋力10)攻撃力1 打撃力15 追加ダメージ0   盾:なし             回避力0   鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7      ダメージ減少4  魔法:古代語魔法4レベル       魔力7  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、エルフ語     (読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語 ミスリル(エルフ、男、34歳) 器用度19(+3) 敏捷度21(+3) 知力18(+3) 筋力8(+1) 生命力9(+1) 精神力16(+2) 冒険者技能 シャーマン4 シーフ3 冒険者レベル 4 生命力抵抗力5 精神力抵抗力6   武器:ダガー(必要筋力4)    攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ4   盾:なし            回避力6   鎧:ソフト・レザー(必要筋力4)防御力4      ダメージ減少4  魔法:精霊魔法4レベル      魔力7  言語:(会話)共通語、西方語、エルフ語、精霊語     (読解)共通語、西方語、エルフ語 レグディアナ(人間、女、19歳) 器用度19(+3) 敏捷度13(+2) 知力12(+2) 筋力21(+3) 生命力19(+3) 精神力14(+2) 冒険者技能 ファイター5 レンジャー3 冒険者レベル 5 生命力抵抗力8 精神力抵抗力7  武器:ヘビー・フレイル(必要筋力21)攻撃力7 打撃力31 追加ダメージ8   盾:なし             回避力6   鎧:プレート・メイル(必要筋力21)防御力21      ダメージ減少5  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語、西方語 マローダ(ラミア、女、?歳)  ラミアとしてのデータは『ソード・ワールドRPG上級ルール分冊2』59ページ参照。  人間としてのデータは次の通り。 器用度14(+2) 敏捷度12(+2) 知力16(+2) 筋力17(+2) 生命力20(+3) 精神力16(+2) 冒険者技能 シーフ2、ソーサラー4、セージ5 冒険者レベル 5 生命力抵抗力8 精神力抵抗力7   武器:ショート・ソード(必要筋力8)攻撃力4 打撃力8 追加ダメージ4   盾:なし             回避力4   鎧:ソフト・レザー(必要筋力3) 防御力3      ダメージ減少5  魔法:古代語魔法4レベル       魔力6  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、ゴブリン語     (読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語 ガスリー(人間、男、26歳) 器用度16(+2) 敏捷度14(+2) 知力15(+2) 筋力14(+2) 生命力14(+2) 精神力13(+2) 冒険者技能 シーフ2、レンジャー2 冒険者レベル 2 生命力抵抗力4 精神力抵抗力4  武器:ショート・ソード(必要筋力7)攻撃力4 打撃力7 追加ダメージ4     ロング・ボウ(必要筋力14)  攻撃力4 打撃力14 追加ダメージ4   盾:なし             回避力6   鎧:ハード・レザー(必要筋力7) 防御力7      ダメージ減少2  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語、西方語 チャーナク(エルフ、男、?歳) 器用度19(+3) 敏捷度20(+3) 知力18(+3) 筋力5(+0) 生命力9(+1) 精神力16(+2) 冒険者技能 シーフ3、シャーマン3 冒険者レベル 3 生命力抵抗力4 精神力抵抗力5   武器:ダガー(必要筋力2)    攻撃力6 打撃力2 追加ダメージ3   盾:なし            回避力6   鎧:ソフト・レザー(必要筋力2)防御力2      ダメージ減少3  魔法:精霊魔法3レベル       魔力6  言語:(会話)共通語、エルフ語、西方語     (読解)共通語、エルフ語 マイズ(人間、男、38歳) 器用度16(+2) 敏捷度11(+1) 知力8(+1) 筋力20(+3) 生命力18(+3) 精神力11(+1) 冒険者技能 ファイター3 シーフ1 冒険者レベル 3 生命力抵抗力6 精神力抵抗力4  武器:ブロード・ソード(必要筋力10)攻撃力5 打撃力10 追加ダメージ6     バトル・アックス(必要筋力20)攻撃力5 打撃力30 追加ダメージ6   盾:なし             回避力4   鎧:ハード・レザー(必要筋力10) 防御力10      ダメージ減少3  言語:(会話)共通語、西方語     (読解) デル・シータ(人間、女、12歳) 器用度14(+2) 敏捷度15(+2) 知力12(+2) 筋力7(+1) 生命力11(+1) 精神力12(+2) 冒険者技能 シーフ2 冒険者レベル 2 生命力抵抗力3 精神力抵抗力4  武器:ダガー(必要筋力3)    攻撃力4 打撃力3 追加ダメージ3   盾:なし            回避力4   鎧:ソフト・レザー(必要筋力3)防御力3      ダメージ減少2  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語、西方語 [#改ページ] 底本 富士見ファンタジア文庫  ソードワールドノベル 悪党《あくとう》には負《ま》けない! サーラの冒険㈪  平成4年8月25日 初版発行  著者——山本《やまもと》 弘《ひろし》